元朝参り
佐倉楓と檀若菜は幼馴染みの親友同士だ。
凍てつくような真冬の早朝。
空が紫からゆっくりと白く変わりつつある、そんな刻。
世界にたった一人きりで取り残されたような静寂の中、楓は急かされているかのような足取りで白くきらきら光る荒い息を吐きながら境内に続く長い長い階段を上っていた。
階段を上りきって二の鳥居をくぐると境内はがらんとしていてまったく人気がなく、たった一人何かを熱心にお参りしている少女の後姿が目に飛び込んできた。
ほっと小さく息をついて楓は手水舎に駆け寄って手と口をすすぐ。
それから社の前で熱心に参拝する少女の隣に静かに近寄って賽銭を入れ、鈴をガラガラと鳴らすと、熱心にお参りしていた少女は打たれたように身を震わせ、びっくりした顔で振り返った。
驚愕が柔らかな笑みにゆっくりと変わる。
楓も微笑み返して、素早く2拝2拍1拝した。
そして先にその場を離れていた少女と合流する。
「あけましておめでとう! 遅くなってごめん」
「おめでとう。今年もヨロシクね」
遅刻を詫びた楓に首を振りつつ満面の笑顔で若菜が新年の挨拶を返す。
“遅刻”といっても明確に約束しているわけじゃない。幼馴染みの二人にはいつしか習慣になってしまった元朝参り。もう10年近くになるだろうか。
翌日には他の仲良しと5人で隣町の有名な神宮に初詣に行く約束をしているのだから、どうしても今朝、お参りに来なければならないわけじゃない。
それでも、まるで示し合わせたかのように二人はここで会い、新しい年の挨拶を交わす。
「凄く熱心にお参りしてたみたいだけど、何をお願いしてたの?」
若菜の真摯な姿勢を思い出して楓が尋ねると若菜は寒さで強張った白い頬をほんのりと上気させた。
「いろいろ、いっぱいお願いしちゃった」
ふふふと可愛らしく笑うそのようすに楓も思わず口元を綻ばせた。
「ワカちゃんは相変わらず欲張りだなぁ」
二人は目を見合わせてさらにクスクスと笑った。
「そういうカエデちゃんは何かお願いしたの?? お参り、一瞬だったけど」
「あー、私は特にないの。まあ“家族が健康で笑って暮らせますように”って」
「いつものお願いね」
「ん、そう」
どちらかと言うと現実的な楓は神頼みを慣例として捉えているだけで自分の願いを成就させるものだとは思っていない。だから家族の健康以外に特に願い事はなかった。
「あたしはね、カエデちゃんの受験がうまくいきますようにってお願いしたの。きっとカエデちゃんは自分でお願いしないだろうから」
流石に幼馴染みと言うべきか、若菜は楓の事を良くわかっている。
「だって神頼みしても仕方がないじゃない。受験は実力の世界だもの。自分が頑張った分だけ自分に返ってくるものでしょう?」
あまりにも楓らしい言葉に若菜は声をたてて笑った。
「それにワカちゃんだって私と同じ受験生じゃない。自分のもお願いしたの?」
笑われて少し口唇を尖らせながら楓が問う。
「え、あたし? あたしは受験生って言ってもあの短大だし、頼むほどの事じゃないもの」
自分の事よりも幼馴染みの事を願うお人好しさ加減に呆れてしまうが、そこが若菜のいいところでもある。
肩を竦めて更に言葉を続けようと口を開いた楓の隣で、くしゃん、と若菜が小さくくしゃみをした。
元旦の早朝は凍えるほどに寒い。
当然、だだっ広く吹きさらしの境内は立ち話には向いてない。
「寒いから歩きながら話そっか」
くしゃみの後、ぶるると小さく身を震わせた若菜の手を取って楓が促す。
手袋越しに触れた若菜の手は氷のように冷たかった。
「……カエデちゃんの手、あったかい」
「カイロ持って来た」
嬉しそうに瞳を輝かせる若菜の手を握ったまま一緒に自分のポケットに押し込む。
「ホントだ、あったかぁい」
本当はカイロだけを渡そうと思って開封して持ってきたのだけれど。
どうしてか楓は繋いだ手を離したくなかった。
大学へ進学すれば幼馴染みとのこんな他愛もない時間は終わってしまう。そんな焦燥感が自分を駆り立てるのかもしれない。
他人なのに、不思議と自分以上に自分を知っている幼馴染み。相手以上に相手を知っている自分。
きっとこれは“寂しい”っていう感情なんだろう。
年末の特番のテレビの話やクリスマスにもらったプレゼントの事、いつもの他愛もない話をしているとあっという間に楓と若菜がそれぞれの家に別れる十字路に到着した。
楓は自分のコートのポケットの中の若菜の手をぎゅっと握り締めた後、思い切るようにポケットから出して若菜の手を解放した。
それからカイロを若菜に握らせる。
「えー、もうすぐ家だからいいよ」
慌てて遠慮する若菜に軽く首を振って見せて、
「じゃあ、また明日!」
逃げるように言い捨てて楓は自宅へ走った。
たとえすぐに会えると判っていても、どうしていつも別れは辛いのだろう。別れの場所に長くとどまることなど楓には絶対に出来ない。
自宅の門の中に駆け込む時にふと振り返るとあの場所でまだ立ち尽くす若菜が見えた。
それに向って一度だけ大きく手を振って家に飛び込む。
「私達が兄弟だったらこんな寂しい気持ちにならずに済んだのかなぁ……」
玄関で靴とコートを脱ぎながら楓はぶるりと身を震わせた。外気との気温差で出た震えなのか、それとも……。
楓が大きく手を振って家に入っていった。
若菜はそれを見届けてからクルリと踵を返す。
自宅へ向いながら自然と大きなため息がこぼれてしまった。
もらったカイロは温かいと言うより、冷え切った若菜の手には燃えるように熱い。
明日また会えるというのにどうしてほんの少しの別れがこんなに辛いんだろう。
――それは、多分、未来を思うから。
今はいいけれど、高校を卒業したら二人のこの関係はきっと終わってしまう。
若菜は再び深いため息を洩らした。
本当は神様に「楓とずっと一緒にいられますように」とお願いしたのに、どうしてかそのことを告げられなかった。
幼馴染みとはいえ気恥ずかしいから?
それとも自分の願いがひどく子供っぽくて非現実的だったから?
進路が違うのだから離れてしまうのはいたし方が無い事なのに?
明日、皆で初詣に行ったら――若菜と楓にとっては初詣ではないけれど――今度こそ伝えてみようと両手できゅうぅっとカイロを握りながら若菜は決心した。
そうしたらきっと楓は何かしらの答えを与えてくれるだろう。いつだって楓は簡単な一言で若菜を導いてくれていたから……。
いつしか若菜の顔から強張りが取れ、瞳が強く輝き、足取りが軽くなる。早足が小走りに、そして駆け足に。
今日別れる事が辛くても明日には会えるのだから。
もし明日会えなくても近い未来には必ず会えるのだから、寂しがる必要はないのだ。
だって二人は幼馴染みなのだから。
若菜は柔らかな笑みを浮かべ、息を弾ませながら自宅の玄関へと元気よく駆け込んだ。