おわりははじまり
私の記憶は
奏が登場してから始まったと考えてもいい。
その前までの記憶が確かにあったはずなのにひどく遠くてぼんやりとしている。けれども奏と出会った後の記憶はまるで昨日の事のように鮮明でとてもきらきらと輝いている。
私のとても大切な思い出。
大好きで大切な奏。多分、そう、自分よりもずっと大切。
奏の呼吸の一つ一つが、笑いさざめく可愛らしい声が、さまざまな仕草やクセが、虚像を結ぶ事が出来るほどに鮮明に私の記憶に刻み込まれている。そのすべてが私を形成する重要なパーツなのだ。
なのに私は故意に奏から逃げ出した。
とても奏の傍にはいられないと判ったから。
私の焼け付くような愛情がいつか奏を雁字搦めに縛って駄目にしてしまうのではないかと畏れて。
いつかこの気持ちを吐露してすべてを台無しにしてしまうのではないかと恐怖して。
何故なら、私は事の始めからずっとずっと奏を愛していたから。
それは親愛ではなくて情欲の絡む愛情。
ふざけるように触れてくる無邪気な奏に何度襲い掛かりそうになったか知れない。その度に紙一重でとどまって堪え切った自分の理性を褒めてあげたい。
けれどもその理性はもう擦り切れて使い物にならなくなってしまったのだ。
だから私は奏を守るために逃げるしかなかった。
それが最良で唯一の選択肢だったから。
離れた大学に進学して独り暮らしを始めた。
奏から逃げて来てとても苦しい。
でもすぐ傍にいてこの気持ちを知られてしまったらという恐怖の方が大きくて、あまりの恐ろしさに逃げ出すしかなかった。
息も出来ないほどの痛みと、もう奏を傷つけることが無いという心からの安堵と。
そして新しい携帯を買った。
前の携帯は電源を切ったまま、まだ解約できずにいる。
それを解約してしまえば私と奏のつながりは更に希薄になるのだ。
こうして携帯を買い替えて連絡を絶って、そうしていつか私は奏に忘れ去られていく。
親友が友人に代わり、友人が知人になる。そしていつか遠い昔の顔見知りになって、そして奏の中であっという間に風化していくのだろう。
それは死ぬほどに辛いことだけれど、私の中の奏は永遠に風化しない、色鮮やかに美しいままに。だから私は永遠に奏を愛し愛で続ける事が出来る。それは過去の記憶の中の奏に過ぎないけれど。
でもそれで私は幸せなのだ。
それが私の幸せの形だから。
「小宮山さんっていつも幸せそうな顔でぼんやりしているよね」
「えっ? そう??」
「うん。俺、そういう小宮山さんって好きかも」
ぼんやりしている私が良いなんてすごく変わっている人。
学科も一緒でサークルも一緒のこの男の人は確か佐々木くんって言ったっけ。
「――良かったら俺と付き合ってみない?」
軽い感じに誘われて私は自然と頷いていた。
奏を失った寂しさを誰が代わることも埋めることもできないけれど、それは判りすぎるくらい判っているけれど、それでもこういう時はとても人恋しい。
だから私は差し出された腕にすこし躊躇いながらも自分の腕を絡めた。
心で佐々木くんに謝罪しながら。
何故ならこの先私が佐々木くんを愛する可能性はゼロなのにそれを隠して付き合おうとしているから。
隣を歩く佐々木くんの体温に、腕を絡めた温かさにどうしてか私はほんの少しだけ泣きそうになって口唇を噛み締めた。
「ねえ、携帯を解約しに行くのに付き合ってくれない?」
07年8月1日〜08年1月6日までのブログの拍手SSでした。