黎 明
――清美はすべてを捨てると言った。
そして今私達はままごとのような仮初めの生活を送っている。私のマンションで。
初めて想いが心から通じ合って身体を重ねたあの夜。
私達は例えようもない歓喜に包まれていた。
眩暈がするほど幸福で身も心も蕩けてどこからが自分でどこからが清美なのか区別がつかないほど私達は互いで満たされていた。
けれども清美は人妻だ。
それは一夜の美しい夢だと思っていた。
結婚はある種の契約で簡単に解消できることではない。
そしてすべてを投げ打って恋に生きる人間などこの世界に存在できるとは到底思えなかった。
「トオコが迷惑じゃなかったら……」
清美の澄んだ瞳が伏せられ、長い睫毛が頬に影を落す。
「私、翔ちゃんと別れるから、トオコと一緒に居させて」
迷惑な訳がない。
でも、あの清美にメロメロのご主人が清美と別れるとは到底思えなかった。
「全部話すわ。そしたら翔ちゃんだって私に愛想尽かすと思うし……」
全部話したら恐らく大変なことになるだろう。清美はすべてを捨てる事になる。ご主人だけじゃなく、恐らく両親や兄弟、そして親戚という血族達。
この先清美と生きていくならば私もそれらすべてを捨てる覚悟をしなければならない。
たとえようもなく清美を愛しているけれど、この先一生清美と共に居る事が出来るのだろうか?
すべてを捨てて一緒になって私達は幸せになれるのだろうか?
私には判らない。
生活は現実で、現実は労働によって金銭を得て日々を暮らしていかなければならないのだ。霞を食べて雲を纏って生きていける訳じゃない。この社会でマイノリティである事はマイナスにしかならない。偏見は歴然として存在するから。
どうすれば清美と一緒に幸せになって清美と自分を守って生きていけるのだろう。
「もう少しも離れていたくないの。トオコが傍に居ないと私の世界はモノクロのサイレントムービーみたいになってしまうのよ」
涙の滲んだ清美の目元を口唇で吸う。しょっぱいはずなのに甘く感じるのはどうしてだろう。
清美の言う事はわかる。清美と再会してから5年前から止まったままだった私の時計も急に動き出したから。そんな風に私達は互いが必要で相手無しでは生きていけない。
なのに、清美は人妻なのだ。
あの日から清美はずっと私のマンションに転がり込んだまま家には帰っていない。ご主人とは電話で離婚協議中。
とにかく一度戻って来てちゃんと話をしようと諭されて家に戻った清美は半日ほどで帰って来た。
その陰のある表情に思惑通りに事が進まなかった事を察する。
でも、聞かないわけにはいかない。
この先を二人で生きて行くためには。
清美は私の顔を見ると胸にすがり付いて静かに嗚咽した。私は清美の長い髪を梳いて、それから宥めるように背中を撫でる。
「ぜ、絶対に、……別れない、って。……」
しゃくりあげながら清美が声を振り絞った。
その結末は私の予想通りだったから特に私に落胆はなかった。やっぱり、と思ったぐらいだ。ただ、この先私達はどうしたらいいんだろう。今のままではいられないという事だけは判っていた。
その時、私の携帯が鳴った。
着信は見知らぬ番号。
通話ボタンを押すと男性の穏やかな声が耳朶を打つ。
それは清美のご主人からだった。
ご主人は清美が世話になっていることに謝辞を述べ清美から私たちの関係を聞いたことを私に告げた。
そして――。
「私は君達に別れろと言っているわけじゃない。私は清美と別れるつもりはまったくないし、君達が別れる気がないなら方法は一つしかないでしょう。
トオコさんが家に来て下さい。三人で一緒に暮らしましょう」
その恐ろしい申し出に私は呼吸をすることすら忘れた。
2007年6月27日から30日までの4日間の拍手ssでした。