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堕ちた天使

 待ち合わせに少し遅れてきたカオルの頬が腫れているのを見て、私は血が逆流するかのような憤りを感じて目の前が真っ赤に染まった。真っ白な肌に赤い彩りはただ目にするだけでもどこか扇情的だ。少なくとも、私には。
「どうしたの、それ」
 挨拶もそこそこに腫れた頬にそっと手を重ねる。腫れているからそこはひどく熱かった。カオルがふと目を伏せて視線を漂わせる。何も語らない噛み締められた唇に私は眩暈に襲われた。
「敏郎なのね?」
 返事は無い。俯いたカオルの肩がかすかに震えを帯びた。
「やっぱりそうなのね。――許せない。カオルに手を上げるなんて!」
 怒りで頭がくらくらすると吐き気すらする。吐き気がするほどの怒りなんて生まれて初めてだった。
 違う。それは、多分、2度目。
 あの時はそれが“怒り”である事も心底からくる怒りが“吐き気”をともなう事も判らなかった。知らなかった。
 ――知りたくなかった……。
「ど、どこへ行くの??」
 カオルの腕を掴んで歩き出した私の背中にカオルのおどおどした声がかかる。生き生きとした瑞々しいカオルをこんなにおどおどしたただの小心なおばさんに変えたのはアイツなのか?
 激しい怒りが私の全身を震わせ、酩酊しているような浮遊感に襲われた。
「敏郎に謝らせる。土下座しても許さないけど」
 怒りを含んだ自分のどす黒いような冥い声に自分自身でハッとしてしまった。背後のカオルも息を飲むような気配を見せた。
「ま、待って。違うのよ、違う。
 全部私が悪いの……」
 私の大事な大事なカオルに、どんな理由があろうと男が手を上げていいはずが無い。それでもカオルの必死な声に足を止めて振り返った。
 うっすらと目に涙を滲ませてカオルが唇を噛み締めている。何度も噛み締められた唇は熟れたように赤く腫れ、私を戸惑わせる。
「だって、アイツはあんたを幸せにするって、大事にするってそう誓って、あんたを手に入れたのよ。そのアイツがどんな理由があろうと、あんたを叩いていいわけないじゃない。
 カオルが赦せても私が赦さない――」
「ショーコ……」
 カオルが呆然とした表情で私の名を呼ぶ。それはなんと甘美な響きなんだろう。私の名前をこんな風に優しい声で優しい響きで呼ぶ人間は誰もいない。甘い柔らかな声音が私の耳朶を打つと、私の身体に甘い痺れが走った。
「あんたを幸せにするって、そう言ってアイツは私からあんたを奪って行ったんだもの、――赦せるわけがない」
 だから私はこの3年間、カオルにも敏郎にも顔を合わせることが無かった。幸せいっぱいな二人を見る気力も余裕も私には無かったから……。
「ずっとあんたが幸せだと思っていたけど、違ったの??」
 私がカオルの濡れた瞳を覗き込むとカオルの瞳が呼吸するように収縮して透明な涙が後から後から流れ出た。
「カオル……」
 ふるふると首を振るとカオルの腕を握っていた私の手にカオルの手が重なった。そのひやりとする冷たさに、自分がひどく取り乱して、カオルの腕を強く握り締めすぎていた事に気がついた。
「ごめん、痛かった?」
「違うの」
 カオルの声は小さかったけれど、涙を流す瞳は今度はそらされる事が無かった。
「敏郎は悪くないわ。私達頑張ったけれど駄目だったのよ。全部私が悪いの……」
 カオルの言う事が判らなくて私はまじまじとカオルの顔を見つめた。カオルと見詰め合って私の胸が早鐘を打つ。まるで全身が心臓になってしまったかのようなこんな激しい動悸は3年ぶりだった。
 好きで好きでたまらない、私の幼馴染み。それが恋だったと気づいたのはもう一人の幼馴染みの敏郎と結婚が決まったと私に報告して来た時だった。
 ずっとずっと私のものだったカオル。私のものだと思っていた。でも、それは幻でちょっと仲が良すぎるただの幼馴染みだったのだ。
「私が浮気をしたから……」
「浮気?? カオルが?」
 ありえないと思いつつ反芻すると、カオルは目を伏せて首を振った。
「浮気とは言わないのかな。はじめから敏郎を愛していなかったから」
「それ、どういうこと??」
 カオルのほっそりとした肩を思わず掴んでから慌てて手を離す。また、強く掴みすぎてカオルの顔に一瞬苦痛が走ったのが見えたから。
「私も敏郎も他に好きな人がいるのよ。ずっとずっと長い事二人とも片思いだった」
「嘘……」
 そんなはず無い。二人の幼馴染みが私の知らない恋をずっとしていたというの?
「嘘じゃないわ」
 カオルは何かを決意したような表情で私を見つめるときっぱりと言った。
「私も敏郎も小さな頃からずっとずっとショーコが好きだったわ。でもショーコの隣には必ず誰かがいた。私でも敏郎でもない誰か。
 だから私達ショーコを諦めようと結婚したの」
「そんな……」
 カオルはただ首を振った。
「この3年、うまくいっていると思ってた。敏郎は私を愛してくれるようになったし、私も敏郎を愛していると思ってた。思うようにしてた」
「カオル……」
「でも、駄目だった。どうしても私の心の殆どを占めるショーコを消す事が出来なかったの。それを敏郎は敏感に察して、最近では酷く酔って暴れるようになったわ」
 赤く腫れた頬を自分の白い手で触って、
「これは酔って階段を踏み外しそうになった敏郎を助けようとしてタイミングよく敏郎の拳が入っちゃっただけ。
 ――天罰だと思ったわ。いつまでも敏郎を愛さずにショーコを思い続けている私への」
 カオルがその白い顔に苦笑を浮かべた。
「敏郎には敏郎を愛してくれる相手が必要だから、私達離婚したの。理由が理由なだけに敏郎はショーコに会いたくないって言って。だから私が離婚の報告に来たの。
 電話で済む内容でもなかったし、私がショーコに会いたかったから。
 ――ごめんね、ショーコ。こんな事告げるつもりは無かったの。でもこのまま敏郎に会わせれば更に彼に追い討ちをかける事になるから、それだけはやめて欲しかったから」
「カオル……」
「ごめんね、ショーコ。あなたの幼馴染みはあなたに欲望を抱く変態だったのよ」
 カオルはずっと私の天使だった。
 それでは生き生きとした瑞々しいカオルをこんなにおどおどしたただの小心なおばさんに変えたのは私?!
 去って行こうとするカオルの腕を咄嗟に捕まえる。
 何から話せばいいだろう。
 ゆっくり、判るように、私の気持ちを、ずっとずっと小さい頃から私が抱いていただろう気持ちを、話そう。
 私が自覚したのはこの3年の間だったけれど。
 びっくりした顔の私の天使を場所もわきまえず私はそのまま掻き抱いた。