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不実な果実
:微妙な表現が含まれています)

 熟れ過ぎた果実のような腐敗臭に背筋が凍った。何故なら、その腐敗臭は自分からたちのぼっていたから。
 ――私が、壊れていく。


 帰る家はそこしかないのに、夜気に身を震わせながら私はアパートを見上げる。
 どれくらいこうして立ち尽くしていただろう。冴え冴えとした白い満月が中天から傾いでいる。
 同棲している。恋人同士。そんな言葉は少しも私達を縛り上げてくれない。
 つれない恋人を揺り動かすために今日も私は男に抱かれて来た。男の影をちらつかせ、男の香りを身に纏っている。その臭いがまるで腐敗臭のように、鼻につく。
 今日こそ別れを切り出されるかもしれない。
 今日こそ嫉妬をむき出しにしてくれるかもしれない。
 恐怖と仄かな期待が私の足を竦ませる。
 こんなにもそばにいるのに、どうしても帰れない。
 帰る家はここしかないのに……。


 私達は恋人同士だ。少なくとも私はそう思っているし、彼女をとても愛している。付き合って欲しいと言ったのも同棲を持ちかけたのも私で、彼女はただ私の言葉に頷いてくれただけ。
 セックスは嫌いじゃない。むしろ好きだ。
 男女間のセックスは即物的でお手軽で、心がともなっていなくても簡単にお互いが気持ちが良くなる。スポーツみたいな感じ。
 ただ、だから心の充足は望めない。何故なら男は相手が女ならば誰でも良くて、私は相手が友達の一人で恋人ではないただの男だから。世間で言うところのセックスフレンド。
 もし、もし彼女が一言嫌だと言ってくれれば二度と合うこともセックスすることも無くなる私と男の関係。
 彼女が一言「愛している」と言ってくれれば私は彼女以外のすべてを捨てることが出来るのに。
 彼女は言わない。何一つ私に要求しない。ただ、男とセックスした後だけはほんの僅かに困ったような顔をする。それが嫌悪なのか嫉妬なのか私には探る術が無い。何一つ揺らぐことの無い彼女を僅かでも揺るがすために私は好きでもない男と快楽を共有する。いつか別れようと切り出されるのを恐れながら。いつか私の不実を罵ってくれる事を少しだけ期待しながら。


 背後から抱き締めてくる彼女の腕は温かい。重なる唇も、洩れる吐息もひどく熱い。身も心も冷え切った私を温めてくれるかのように。だから私は錯覚する。まるで愛されているようだと。けれども彼女は何も言わない。いつものように少しだけ困った顔をして。
 たまらなくなって私が彼女を押し倒して彼女のすべてを暴く。すると彼女が困った顔を更に歪めていやいやでもするように首を振った。
 私から立ち上る不快な臭いを落して欲しいと、柔らかな唇が紡ぐ。
 この、鼻も曲がらんばかりの腐敗臭が私自身から漂うのではないとどうして言い切れるのだろう。この臭いは洗い流しても消えない。私が、壊れて、腐っていく、その香りだから。
 申し出を無視しすると彼女の顔に諦めが浮かんだ。
 少しも揺らがない彼女をそうして少しだけ揺り動かした事に暝い喜びを覚える。
 彼女を揺り動かす唯一の手段だからどうしても火遊びはやめられないのだ。 
 快楽に浮かされるように彼女が甘やかに愛を囁く。まるで魔法の呪文のように。
 ――愛してる。
 ――愛してる。
 快楽に支配されてうわ言のように繰り返されるそれは、セックスの常套句でしか言ってもらえないその言葉は、私の胸を深く抉る。
 愉悦に滲んだ涙を唇で吸い取り、私を切り裂く言葉を止めるために、甘い吐息を零す彼女の唇を自分のそれで塞ぐ。
 どうすれば彼女は私を見てくれるのだろう。
 どうすれば彼女は私を愛してくれるのだろう。
 私の思考は堂々巡りを繰り返す。
 いつ告げられるか知れない別れの言葉におののきながら、それでも私は愚行をやめることが出来ない。いつか彼女に嫉妬してもらえるのではないかと言う淡い期待をどうしても捨てきれずに。


 熟れ過ぎた果実のような腐敗臭は私から消えることは無い。
 ――私が、壊れていく。