まぼろし 1


 この感情は憧れだと思っていた。
 憧れであって欲しかった。
 私の理想が服を着て歩いている。
 惹かれるのは情欲の為ではなく純粋な憧憬だと、そう信じたかった。
 気づきたくなかった。
 自分の醜いまでの欲望に。
 姿形と精神までもが端正でとても美しいあなたに対してこれは冒涜以外のなにものでもない。
 そう、あなたはいつまでもいつまでも女神のようだった。






 ふと気づいたら私はお局と呼ばれる年齢になっていた。
 仕事が楽しくて夢中で生き甲斐で、無趣味な私は見事に仕事一色に塗りつぶされたような人間だった。仕事を次々にこなしていく達成感と充実感だけが私の人生の喜びだった。
 だから平日は家に帰っても寝るだけ、休日はというと土曜日は普通に休日出勤、日曜日はお昼頃まで眠って午後はショッピングをして少し家の中を片付けるぐらいであっという間に終わってしまう。
 その短い休日ですら仕事から離れていると思うと寂寥と呼べばいいのか喪失と呼べばいいのか判らないけれどふとした瞬間にそんな空虚な感覚が私を襲って心から楽しむ事はまったくなかった。




 新しい上司だと紹介された人は10歳以上年上の女性だった。
 女性が多い部署とはいえ、今までは男性の部長が束ねていた部署なだけにそれは異例の大抜擢とも言える。
 元々本社採用でこの10年は地方支社を転々として本社に戻る前は関西支社の副支社長だったそうだ。
 本社の部長と地方支社の支社長はおおよそ同列の扱いなので彼女は栄転して本社に戻ってきた事になる。
「42歳ですって、ずいぶん若く見えるわよね」
「うん、歳はいってるけど結構美人じゃない?」
「バツイチだって。子供はいないらしいけど……」
「役員の誰かの愛人だって噂もあるけど、本当のところどうなんだろうね」
 嫉妬と羨望と憧れと、いろいろな感情がもつれ合うように彼女の噂話は絶える事がなかった。ただ一つ言える事は彼女は今までの部長と較べて格段に優秀でかつ姿形も洗練されていた。




 上司が変わっても私の仕事内容には特に変化はなく、毎日残業をしながら日々の仕事をたんたんとこなしていると、普段休日出勤をしない新しい部長が珍しく土曜出勤をし、それもかなり遅くまで残って仕事をしていたため、最後には私と二人きりになってしまった。
「ね、成瀬さん。私もう終わって上がるけど、そっちはどう? あがれそうなら私が鍵を閉めちゃいたいんだけど……」
「え、はい。――私はもう少しやって帰りますからお先にどうぞ」
 不意に声をかけられて顔を上げた私はフロアに自分と部長しかいないことに気付いて急にどぎまぎした。考えてみれば部長と二人っきりになることなんて今まで一度も無かった。
「あー、そっか。その仕事って今日中なの?」
「いえ、そういう訳じゃないんですけど切りのいいところまでやってしまいたいので……」
「あとどのくらいで終わりそう?」
「多分、30分か一時間ぐらいで」
「じゃあ、待っててもいい?? それが終わったら一緒に食事に行かない? この後予定がなければ、だけど……」
「ええっ!」
 上司と部下と休日出勤の夜。それは特に不思議はない誘いだったけれど、初対面のような間柄なのに二人っきりで食事だなんて……。私は部長の端正な顔をただぼんやりと見つめ返してしまった。これが現実で夢じゃないことだけは確かだと判っているのに現実感が酷く遠い。
「それともこの後何か用があるの?」
 私ははっと我に返って慌ててぶんぶんと首を振った。
 土曜はいつも休日出勤で遅くまで仕事をして、遅めの夕食を外でとってから家に帰って寝るだけのスケジュール。そこに変化はほぼない。というか、私自身が変化をつける気がないから。
「じゃ決まり。休憩室で一服しながら待ってるわね」
 そう言うと部長は鞄と上着を持ってフロアから姿を消した。