上司、それも直属の部長に待たれていて仕事に集中できる人間なんてはたしているのだろうか？




　仕事に集中しててふと時計を見たらゆうに一時間が過ぎていた。
　我に返り、慌てて机の上を片付けて鞄を持って休憩室へ行く。
「遅くなってスイマセン！！」
　飛び込むと部長は休憩室のソファに深く腰をかけてうたた寝をしていた。
　高くとおった鼻梁、長い睫毛、綺麗な形の口唇。
　緩く巻いた髪が少しだけ乱れて頬にかかっている。
　起きている時には気付かなかったいくつかの皺が見えたけれど、本当に綺麗な人なのだとしみじみ感じた。
　私とは全然違う。
　綺麗で華があって魅力的で活動力も統率力も明晰な頭脳もあって。そしてそれを活かして生きている。
　もし何かを競うならば私は若さという能力とは何の関係もない事でしか彼女には勝てない。
　ようするに、無能なのだ。
　部長の恵まれ具合に酷く嫉妬している自分に気付いて、自分の中にそんな醜い感情があることにはじめて気付いて、私はおそろしく狼狽した。




　長い睫毛が震えてゆるやかに瞬くと、黒目がちな瞳が見え隠れして茫洋としていたその焦点がゆっくりと結ばれる。
　――ああ。
　それはとても感動を覚える瞬間だった。
　瞳に意志が宿るだけで彼女の美しさや華やかさはあっと言う間に倍増するのだ。こんな瞬間を何人の人が目にしたんだろう。そして何人が私と同じように感じて感動したんだろう。
　そのまざまざとした様子に見惚れていると、何事も無かったかのような笑顔を浮かべた部長が「終わったの？」と声をかけてきた。
　よく透る凛としたその声。
「え、あ、はい。その、……一応……」
　部内では『お仕事マシーン』とか『鋼鉄の女』とか呼ばれている私がしどろもどろに答えるさまはひどく滑稽だろうに部長は物思う真面目な表情でじぃっと私を上から下まで何往復も眺めると、自分の鞄の中をガサゴソと探り出した。
　カラフルな布地を取り出し、アクセサリーポーチの中からきらきらしたものを取り出す。
「そのままでも充分素敵だけど、良かったらこれをつけてみて」
　一瞬で二人の距離がなくなり、すぐ目の前にアップで部長の艶やかな口唇があった。
「え、ええっ！！」
　私の動揺する声とほぼ同時に、ふわりと鼻腔を擽るのは仄かな香水の香り。
　肌触りのいいつるりとした布が私の首を滑る。
　部長の手が魔法のように滑らかに動いてするすると私の首に布を巻くとぱちりと音がしてきらきらしたものがその布に止められた。
　スカーフとブローチ。
　スカーフは定番の有名ブランド。ブローチも同じメーカーのもので、ペンダントのような形になっていてペンダントトップとチェーンの両端がピンになっている。
「ＯＫ、とってもよく似合うわよ」
　そう言うと部長はポンポンと、スカーフの上から軽く私を叩いた。
　窓の外はすでに真っ暗で、蛍光灯の下、鏡のようになった窓に室内がぼんやりと映り込んでいた。そこに映し出された私はいつもの味気ない紺色のパンツスーツを纏っているのにまるで別人のような華やかさを持っている。
「あっ、あのっ！」
「これから行くところは私的にはちょっとお洒落して行きたい所なのよ。だから気を悪くしないでちょうだい」
　動揺して言葉も無い私を気に留めることなく「行きましょ」と言ってさっさと休憩室を出て部長は歩き出した。
　私も慌ててしゃっきりと動かない思考と身体で後について行く。
「……部長……」
　どこか現実感が無い出来事に柔らかなスカーフの感触を指先で確かめ、うつむいてそこから漂う香りを吸い込む。その香りはたぶん有名ブランドのメンズのもの。女性物とは違って甘すぎず、すっきりとした香りの中に仄かに甘さが漂う。なんて部長にぴったりの香りなんだろう。
　ふと顔を上げると部長はもうだいぶ先を歩いていた。
　その端正な姿に、後ろ姿でも部長はなんて美しいのだろうかと、思わずこぼれてしまうため息を禁じえなかった。