まぼろし 3


 食事は記念日などに行くような高級レストランでフランス料理のショートコースを食べた。
 フレンチは年に何度も付き合いで行くので特にどうという事は無いのだけれど、相手が上司で、それもほぼ初対面に近く、会話もそんなに弾むわけではなくて、だから緊張しながらも、ただただ綺麗な所作の部長に時々ぼんやりと見惚れてしまっていた。
 食事を終えるとそのまま上階の展望ラウンジに誘われた。
 肩が触れそうなほど近い距離でスツールに腰掛けて夜景を見下ろす。
 そのバーは逆のすり鉢状になっていてどこからでも視界を遮られることなく夜景や展望を楽しめるようになっていたけれど、どこから見たって代わり映えのしない地上の星を眺めるどころではなく、信じられないくらいの至近距離で端正な部長の横顔に私の目は釘付けだった。
 そして、食事に誘われた時からずっと考えていた疑問を口にした。
「どうして私を誘って下さったんですか??」
 逸る胸を軽く手で押さえると、部長から借りたスカーフのシルクの滑らかな手触りと、ほのかな香水の香りがふわりと鼻をくすぐる。ああ、部長の匂いだ。
 それはまるで夢のように、幸せな、瞬間だった。
「実は、査定なのよ」
 瞳にいたずらな輝きを宿して、部長は囁くように言った。
「え? 査定、……ですか??」
 部長は緩く巻いた髪をかき上げて、私に頷いて見せた。
「食事って一番人間の素が見えるものなのよ。だから私は部下を知るために一番初めに必ず食事に行くことにしているの」
 だから課の全員ともうすでに食事を済ませていて、私でおしまいだという話だった。
 浮かれて弾んでいた私の心は一瞬にしてぺしゃんこになった。
 馬鹿みたいだ。
 私みたいに何のとりえも無い女をこの特別な人が特別な思いを寄せてくれる訳無いって事、判ってたのに。
 期待して、有頂天になって、舞い上がって、本当に馬鹿だ。
 恥ずかしい。
「そうね、あなたは65点かな」
 65点??
「私の採点、結構厳しいわよ」
 静かにひそめた声でそう囁くのに、グロスの乗った艶やかな唇は緩やかに綻んでいた。
 65点って、もしかして高得点なの??
「でも、私だけが査定してたわけじゃないと思うわ。
 私があなたを見ているように、あなたも私を査定してたはず。
 部長として相応しいか。
 それとも噂どおりの役員の愛人か、って」
 いたずらっぽく輝く部長の瞳に吸い寄せられたように私の目は瞬きを忘れる。
「私に言えることは少しだけ。
 まず、自分に投資すること。
 マナー教室に通うとか、料理や英会話を習うとか。
 それから仕事が時間内に終わらないのはあなたの能力が低い証拠。
 もう少し計画的に効率よく。
 出来るはずだから。
 それから、これが一番大事なんだけど、あなたは恋をしたらいいわ。
 仕事が楽しくて生きがいなのは結構だけど、恋をしない人生はあまりにも味気ないわ。
 人間は人と触れ合うことによって成長する生き物なのよ」




 そう言って微笑んだ部長に、私はとうに恋に落ちていた。