まぼろし 4
3ヶ月が過ぎた。 私の生活は仕事一辺倒からかなり変わった。 土日はきちん身体を休めて、早帰り日の水曜には習い事を入れるようにした。 その他の平日も極力深夜残業はしないようにきちんと計画を立てて合理的に仕事を進めていった。 考えてみれば前任者の仕事の仕方を踏襲していただけで、無駄で必要のないこともたくさんあった。それを合理化してルーチン化すれば仕事の量が70%を切ることが判った。 その為にかなり時間的余裕も出来、それはすなわち会社の利益にもなる。 そうして私が部長の言葉に自分を変えようと一生懸命になって、その効果を徐々に実感し始めた頃、また唐突に部長の海外転勤が決まった。 「部長!」 会社のロビーで部長を待ち伏せして、帰りがけの部長を捕まえた。 「――成瀬さん……」 「お忙しいところすいません。少しだけ、お時間をいただけませんか?」 私の言葉に、部長はわずかに唇を綻ばせた。そんなほんの少しの表情の変化でも私の目を惹きつける。これが恋じゃなかったら、この吸引力はいったいなんなのか。恋じゃなくて、こんなにも一人の人間に惹かれるものなのだろうか。 二人で並んで駅の方へと歩いて行き、途中のティールームへ腰を落ち着けた。 「それで、話って?」 カフェオレを一口飲んでから、部長は私をうながした。 「あ、はい。その、部長が転勤されるって聞いて」 「ええ、今度はロスよ。日本中たらいまわしにされて、今度は海外。一応3年って期限切ってあるけど恐らく5年しないと戻れないと思うわ」 「……5年」 その年月の長さに私は眩暈がした。 「おかしいですよね、うちの部にきてまだ半年経ってないのに、もう配置換えなんて」 「それは仕方が無いわ」 部長は緩く巻いた髪を静かにかき上げて、目を伏せた。そうすると長い睫毛が象牙色の滑らかな頬に影を作って、とても印象的な貌になる。 「まだ本社の部長は早すぎたって事よ。無用な軋轢を生むのは本意じゃないわ。だからちょっと海外に行って箔つけて帰って来るわ。 そうしたら年齢も進むし、時間も経つから……」 「それは女だから……って事ですか?」 「そうよ」 目線を上げた部長の目は強く輝いていた。 「前例が無いから。すべて遠回りすることになるのよ。 それでも、私はしなければならないのよ。 後に続く女性のためにね」 その強い瞳に目をそらすことも出来なくて、私の唇は言葉も無く震えた。 どうしてこの人がそこまでしなければならないんだろう。 どうしてそんな険しい道を選ぶのだろう。 聞きたいことも言いたいこともたくさんあった。 けれども何一つ言葉にならなかった。 「ありがとう」 部長はやわらかに目を細めた。 「私の為に怒ってくれるのね、ありがとう」 私は言葉をつむぐことも出来ない役立たずの唇を強く噛み締めた。 「私のこの道は原山専務がつけてくれた道なのよ」 「原山専務……」 我が社では女性初の専務だけれど、でも、それは。 「そうね、今でこそ副社長の奥さんだけど、原山専務は私の先輩で、私にすべてを教えてくれた人だったわ。 私は原山専務に教わった事をあなた達後輩に少しでも役立てられたらと、余計なおせっかいばかり焼いてしまうのよ……」 原山専務は確かに女性初の専務だったけど、ずっと長いこと副社長――つまり社長の息子――の愛人で本妻が亡くなったので後添えになって専務になった人だ。正直身体で得た地位だと私は思っている。 「それは正解でもあり、誤解でもあるわ」 私の不満な顔に気付いた部長が、苦笑を浮かべた。 「専務と副社長の間に愛人関係は無かったのよ。でも、副社長はずっと原山さんの事を好きだったの。奥さんもお子さんもいたのに。 原山さんが専務になる時社長に、息子と結婚したら専務にしてくれるって言われて、彼女は即答したらしいわ。これ以上登りつめるのにそれが必要なら、と。 だから確かに原山さんが専務になれたのは副社長と結婚したためよ。でも、良いじゃない、不倫関係と言うわけじゃないし、誰にも迷惑をかけてないわ」 「そうまでして、登りつめる意味があるんですか?」 「あるわ。原山さんの前には道が無かったんですもの。彼女は自分で道を切り開くしかなかった。 そして手段はどうであれ、道を切り開いたのよ」 部長の頬は紅潮し瞳は柔らかに緩んでいた。 「部長は専務を愛してるんですね……」 思わずそんな言葉がこぼれて、私はとっさに自分の口を両手で塞いだ。 でも、そんなことをしても、こぼれてしまった言葉は元には戻らない。 部長はびっくりしたように目を瞠った後、見たことも無いほど華やかに莞爾した。 「そうね、確かに愛してるわ。 原山さんは私の道しるべであり、目標であり、そして同志だから……」 |