雨、上がる 3


 ふと視線を落とした遼は央の華奢な小さな足とよく磨かれたエナメルの靴を目にした。そしてその視線はそのまま自分の足元まで流れて、遼は思わず深いため息を漏らしてしまった。
 慌てて飛び出して来たから服に合わせた靴ではなくて、普段よく履くちょっとくたびれ気味の靴をそのままつっかけて来てしまったのだ。
 そして家を飛び出すのまでの一部始終を思い出して再び遼の気分は沈んでいった。
 母親に友達の結婚式に行く事は伝えてあったけれど、それはもちろん同性婚だと伝えていなかったし、そもそも家族の誰にも遼は自分の真実を告げてはいない。そしておそらく今後も告げる事は無いのではないかと予感――いや、確信――している。
 だから友人の結婚式へ出席するのに化粧っ気も無く地味なパンツスーツで出かける娘を見て、事情を知らないだけにこれも出会いのチャンスなのだからもっとお洒落をして行くようにと言わずにはいられなかった母親の気持ちも判らなくは無い。
 けれどもその話からやれアルバイトはやめて正社員になれだの、いい年の娘が定職につかずにふらふらしているのは外聞が悪いだの、女性には永久就職と言う手もあるのだから……などと始められてしまってはたまらない。
 休日のために家にいた父親までが会話に参加してきて「嫁には当分行かなくていい」だの「いや早く行ってもらわなくては後がつかえていてこまる」だのと始まってしまったのだ。そしてその話は結局「早く孫の顔が見たい」という結論に落ち着いて、明日にでも見合い相手を見つけてきそうな勢いの両親に堪らず逃げるように慌てて家を飛び出して来てしまった。
 その結果が、この靴なのだった。
「――外村さん、気分でも悪いんですか?」
 急にうつむいた遼に央の気遣わしげな声がかかった。
「え、ああ、なんでもない、なんでもない。大丈夫だから」
 下から覗き込むように見上げる央の顔が思ったよりもずっと近くにあって、びっくりした遼は思わず飛びずさってしまった。
 その様子に央の唇が綻んだ。
「外村さんってとても表情が豊かなんですね。今日みたいな外村さん初めて見ました」
「えっ? う〜〜ん? そうかな?」
「はい、インテリアではいつもクールで落ち着いて見えました」
「あー、うん、あそこではロボットみたいなものだったから、あたし」
「ロボット??」
「そう。人見知りが激しくて引っ込み思案だからどうしても接客業が合わなくて。でも縁故で入社したからそうそう簡単には辞める訳にもいかなくて。それで、どうしたら続ける事が出来るか考えて、自分はロボットだって自分に言い聞かせて働いてたんだ」
 叱られても大丈夫。謝るのも平気。嫌な事を言われても笑顔でいられる。それはロボットだから。自分がロボットだと思わなければ遼はあの職場をとても続ける事は出来なかった。
 そんな遼に比べて央ははるかに外交的で上司にも後輩にも、そして一部の彼女をやっかむ人種を抜かした先輩にもかなり人気があった。
「そうだったんですか。全然気づきませんでした。
 いつも落ち着いていてクールで大人っぽくて、正直完璧すぎて近寄りがたいなぁとは思っていましたけれど……」
「完璧だなんて」
 遼は肩をすくめて首を振った。
「マニュアルどおりに動く人形に過ぎなかっただけ」
 確かにあの5年はいい勉強になったし、経験値を少しばかり上げる事は出来たけれど、遼個人の人生の中では死んでいたも同然だった。今の派遣業務が良いというわけではないが、少なくとも素の自分のままで働けるだけましだと思えてしまう。
「長谷川さんは職種は違っても接客業を続けてるんだからやっぱり接客に向いてるよね。いつもニコニコしてて感じが良いし美人だし」
 遼の言葉にさっと頬を赤らめた央をぼんやり眺めていると、ふと天啓のようにひらめきが訪れた。
「あー、長谷川さん。そのさ、……」