ふれる 2


 最近、顔を会わせる人みんなから、「大丈夫、具合悪そうだけど……」と心配されてしまう。
 あやめを苛むものは、不眠・食欲不振・動悸・息切れ・眩暈等、ありとあらゆる体調不良だった。
 それでも、とうとう、ようやっとその日を迎えた。
 やっと終わるのだ。あやめは心底ホッとして胸を撫で下ろした。
 勿論、フェア自体はこれから2〜3ヶ月かかるから、すっぱりさっぱりと接点が消失するわけではないけれど、会わずに電話で済ませられる用件も多いだろうし、会っても今までのように一日中べったりということもないだろう。
 そのストレスから開放される。
 そう思うだけであやめは身も心も軽くなるようだった。
「ありがとう。
 後はこの仕事の成功をお互いに祈りましょう」
 最後とばかりに蓮見かおりに手を差し伸べられて、躊躇いながらも握手を交わす。
 その手に触れた瞬間、あやめはびりりと小さな痛みを感じた。
 ――静電気??
 季節柄ありえるからと、じんわりと痺れるような痛みに変わったそれをそ知らぬふりでやり過ごす。思わず痛みにわずかに伏せた目線で、さっと蓮見を見ても彼女には特に変わった様子は無かった。
 ――静電気じゃないの?
 たちまち胃の辺りから不快感がこみ上げてきて、あやめは失礼にならないぎりぎりの速さでやや振り払うように、握手を切り上げた。
 うつむき加減で口元を押さえ、何かに耐えるように目を閉じたあやめを見て、不審に思った蓮見が心配そうに覗き込む。
「ずっと無理してたみたいだけど、大丈夫??
 早く帰って少しゆっくりした方がいいわ」
 気遣うようにそっと触れられた肩に、こめかみまでがガンガンとなる。
 ――耐えられない……。
 あやめは蓮見の手から逃れて身をよじると、喘ぐように空気を求めて咳き込んだ。
「杜若さんっ!?」
 甲高い蓮見の叫びが、意識を失う直前にあやめが聞いた最後の声だった。





 目が覚めて目にしたのは白い天井。
 それから独特のにおい。
 それであやめはそこが病院だとわかった。身体がひどく重く、霞がかかったように頭がぼうっとしていた。
「目、覚めた??」
「しょうちゃん……」
 ベッドの傍に居て声をかけてきたのは同居中の弟だった。
「ねーちゃん、過労だって。
 今日はこのまま入院して、明日には退院していいって。
 一応とーちゃんとかーちゃんには電話しといたけど」
 両親は田舎にいて、大学生の弟が一番身近な身内だった。
「校内放送で呼び出されてさ、びっくりしたよ。
 最近顔色悪いなって思ってたけど、そんな仕事大変なんだ?」
 同居と言っても家賃や水道光熱費をあやめが払っているだけで、バイトだ、やれコンパだと、さっぱり家にいない弟とは本当に久しぶりの会話だった。
「ごめん、心配かけて」
 いつも強気な姉のいつにない殊勝な態度に弟は思わず口元を歪めた。
「いいけどさ、あんま、無理すんなよ」
 歳の離れた弟に優しい言葉をかけられて、あやめは目の奥が熱く小さく痛んだ。それでもぐっと唇を噛み締めて、姉の体面を保とうと涙をこぼすまいと、耐えた。
 それから、ぽつりぽつりと、うながされるままにあやめは最近の出来事を弟に喋ってしまった。
 体調が悪くて、調子が悪くて、いつもどおりに頭が働かなくて、なんだかぼうっとしていて、ついつい喋ってしまったけれど。平常のあやめだったら決して誰にも話したりしない内容を、どうしてか喋ってしまったのは、やはり、身内という安心感と、あやめ自身のすべてが悲鳴を上げて助けを求めていたからだろう。
 話を聞き終えた弟は深々とため息をついて、頭を抱えた。
「しょうちゃん、どうしたの?」
「ねーちゃん、駄目駄目じゃん」
「えっ?」
「てかさ、今まで聞いた事無かったけどさ、ねーちゃん人を好きになった事ないの?」
「は?」
「今までにさ、何人かと付き合ってた事は知ってるけどさ、付き合うのと好きっていう気持ちになるのとは違うじゃん。
 ねーちゃん、自分から誰かを好きになった事、あんの?」
 何だか判らないけど真剣な顔で血の繋がった弟に尋ねられて、あやめはう〜んと考え込んだ。
 人生上で好きだと告げられて異性と付き合ったことは数えるくらいだけれど、確かにある。
 じゃあ、その相手を好きだったかと言うと、微妙な感じだった。
 嫌いじゃないけれど、すべてを優先させるほどには好きではなかった。
 だからこそあやめはいつだって誰とも長続きしなかった。
「正直、判りたくなかったけど、俺、判っちゃったよ」
「判ったって、何が??」
 弟は再び深々とため息をついた。
「それ、“恋”だよ」
「コイ?」
「いや、その、恋愛のさ、“恋”」
「はぁっ!?」
 あやめの素っ頓狂な声に、場所柄、その弟は人差し指を唇にあてて歳の離れた姉をたしなめた。
「や、そう叫びたかったのは俺の方だから。
 聞きたくなかったし、言いたくないけどさ、それは“恋”だよ。
 いわゆる一目惚れってヤツ」
 弟の言葉はあやめをしたたかに打ちのめした。
 それから弟が何を言ったかさっぱり覚えていない。
 いつ帰ったのかすら気がつかなかった。
 ただただ彼女の脳内では“一目惚れ”という言葉がエンドレスでぐるぐると渦巻いていた。