ふれる 3


 一目惚れって、小説とかドラマの中だけの事だと思っていた。
 なぜなら人を好きになる時は一つずつ素敵なところを見つけ、それがたくさん積み重なっていって、徐々に、いつの間にか、好きになっている……そんなものだとあやめは思っていた。
 一目見て恋に落ちるなんて、そんな非現実的なことがあろうはずも無い。
 そう、信じていた。
 そんな自分がまさか一目惚れするなんて、いったい誰が想像できただろう。
 一目見ただけで全身が心臓になってしまったかのように早鐘を打ち、その耳元で響く心音のあまりの煩さに、たちまち相手の話なんて何一つ聞こえなくなってしまった。そして現実にそんなことが起こるなんて、こんな事になっても未だにあやめは信じられないでいた。
 でも、そう、彼女の弟の言葉を信じるならば、そう、杜若あやめは、一目惚れ、――したようだ。
 そして相手は会社の取引先のインテリア・コーディネーターの女性。
 ――女性。
 なのに、一目惚れ?
 それこそ更に信じられない出来事が重なる。
 一目惚れだけでもありえないのに、相手は同性で、女性なのだ。
 『これは何かの間違え、気の迷いだ』とどれだけ呪文のように唱えたことだろう。
 けれどもその後1週間が経ち、2週間3週間と日々が過ぎ、とうとう1ヶ月が経とうという頃、結局不眠や食欲不振・体調不良は改善されず、ますます酷くなる一方で、あやめはしぶしぶと自分の心を受け入れ始めた。
 蓮見を生理的に嫌悪していたと思っていたのは間違えだったと、思い知る。
 そして自分の心を肯定し始めたあやめの行動は素早かった。
 一目惚れという複雑怪奇な現象に翻弄されていても、そもそものあやめの思考回路や性格は単純明快で整然としているのだ。
 うやむやに出来ない、しないというのは彼女の欠点でもあり長所でもあった。





 蓮見かおりのスケジュールは調べるべくもない。
 すぐにあやめと共に企画したフレッシャーズ向けの企画が始まった。初日には勿論、あやめも蓮見と共に立ち会うことになっていた。
 だからわざわざ会いに行ったわけではなかったけれど、でも、確かめようと、自分の気持ちを知ろうと確固たる思惟を持って蓮見に相対した。
 その空間に入った瞬間、目に飛び込んで来たのは鮮やかな色。
 世界はこんなに鮮やかに色づいていただろうか。
 見ただけでドキドキするような、胸躍る色彩に溢れていただろうか。
 そしてその中心にいるのが蓮見かおりだった。
 以前だったら、その洪水のような色彩にすぐに気分を悪くしていただろう。
 けれどもその日のあやめは違った。
 自分の気持ちを見定めるために、押し寄せるありとあらゆる情報を排除して、ただひたすらに蓮見かおりを見つめた。
 自分の意思とは関係なく磁石のように引き寄せられるその抗いがたい力に、必死で抗うから、気分が悪くなるのだ。
 胃の痛みもムカつきも、切ない胸の痛みと動悸だとわかれば腑に落ちる。
「なんだ……」
 あやめは独りごちて自分を笑った。
 小学生とか、子供の恋のような自分の恋愛スキルの低さに、思わず。
 好きと嫌いと正反対の感情をどうして取り違えたり出来たのだろう。
 ぶんぶんと頭を振って何度か深呼吸を繰り返した後、両手で自分の頬を叩いて気合を入れると、あやめはスタッフに指示を出している蓮見かおりの元へと足を向けた。
「こんにちは、お久しぶりです」
「あら、具合はもう?」
「はい、おかげさまで。その節は大変ご迷惑をおかけしました」
 しっかりと頭を下げるあやめに、蓮見の唇が少しだけ綻んだ。
「でも、まだ、本調子じゃなさそうね。顔色、良くないわ」
 あやめは答えずに緩く首を振ると、微笑を浮かべて、静かに手を差し出した。
 倒れてしまったあの時からやり直そうと思ったのだ。
「無事開始、おめでとうございます。成功間違いないと確信しています」
 祝辞と差し出された手に、蓮見かおりの顔が笑顔になる。
「有り難う。私も確信しているわ」
 ぎゅっと、あやめの手を握り返す。
 触れ合った手はまるで電気が流れるようにびりびりとして、その衝撃はじんわりとあやめの脳にまで達した。それはある種のしびれるような快感でもあった。
 だからやはりとあやめは理解した。
 無意識に身体が喜んでいる。そういうことなのだろう。
 ドキドキと耳や全身を打つ早鐘に、気が遠くなる。
 でも、ここで倒れて前回と同じ轍を踏むわけにはいかなかった。
 あやめはすべてをぐっと堪えて、声を振り絞った。
「今日、もし宜しければ、夜に食事でもいかがですか。
 お話したい事があって……」
 初めてのあやめからの誘いに、蓮見はびっくりした顔をした後、やわらかく破顔した。
「よろこんで――」
 思い立ったが吉日。決行は今日。
 あやめの全身がぶるりと震えた。