□ 雨に歌えば
同棲して5年。少し若い二人の日常。

 疲れた身体を休めようと我が家に帰る。
 玄関に入って靴を脱ぐとそれだけでホッとした。
 仕事にいつも付きまとうのは走り続けなければいけないという焦燥感。嫌いなわけじゃない。むしろ好き。それでも走り続けていればへとへとになってしまう。
 そのすべてがリセットされ、私が一番私らしくいられる場所。それがこのマンションで、彼女のいる私達二人の家。そう、俗っぽく赤裸々に言えば、愛の巣。
 リビングに入ると照明はついているのに彼女は居なかった。
 普段だったら私の「ただいま」という声で玄関に迎えに出て来る彼女だから入浴中かと脱衣所兼洗面所をのぞいても、いない。
 では彼女自身の部屋かとノックして扉を開けたけれど、あてが外れた。
 スーツの上着も脱がずショルダーバッグも提げたまま広くもない家の中を彼女を捜して私はウロウロした。
 結局見つけられずにリビングへ戻って、ショルダーバックをソファに放り投げ上着を脱ぐ。ブラウスの胸元を寛げ、滴る汗をタオルで拭った。室内は気持ちいい温度に保たれていたけれど徒歩8分とはいえ駅から歩いて帰って来た私はどっと汗をかいていた。
 ――カラカラカラ……。
 軽いサッシの音に咄嗟に振り返る。
「まあ、お帰りなさい」
 彼女が一瞬驚いた顔をした後、ふんわりと笑った。
「今日は早かったのね」
 このところ毎日終電で帰って来て午前様だったから、純粋な意味で早いとは言い難いけれどその日のうちに戻ってきた今日はいつもよりは確かに早めだ。
 私の目は彼女の背後の窓の外に引き寄せられた。
「笹??」
 少し広めのバルコニーで緑色の細い葉がサラサラと音を立てて揺れていた。
「うん、帰りがけに花屋さんで見つけて買ってきちゃったの」
「そっか、今日、6日だっけ?」
 彼女は頷いてから私の傍に寄り、抱きつくように私の首に腕を回してキスをした。そっと触れるだけの挨拶。
「ただいま」
 私は呟いて離れていく口唇を追った。今度は私から深い深いキスを送る。
 重なって絡み合って確かめあう。それはとても大事な儀式。
 彼女の上気した頬と潤んだ瞳に疲れて判断力が低下した脳が、理性が、たちまち崩れて堕ちて行く。
「――セックスしたい」
 喘ぐように私が囁くと腕の中の彼女がさざめくように笑った。
「私も、したい……」
 その耳を擽る甘い声に眩暈がする。
 そのままソファに押し倒してしまいたいのをぐっと堪えた。
 だって私は汗だくでドロドロでべたべたなのだ。サラサラでいい香りの彼女を抱くのに良いコンディションとは言い難い。
 私の中で二つの感情がせめぎあっているといつの間にか腕の中から逃れた彼女が私の腕を引いた。
「一緒にお風呂入りましょう。背中流してあげる」
 一緒に入ったらもちろんお風呂だけでは済まないのに。無邪気な彼女の笑顔に思わず身体がカッと熱くなった。
 私がどんなに彼女に夢中なのか、彼女はきっと判っていない。
 もちろん、彼女の魅惑的な誘いを私が断るわけもなく私達はバスルームへ向かった。


 彼女にマッサージするように丁寧に全身を洗ってもらった。
 彼女が触れる場所すべてがエネルギーを吹き込まれたように蘇っていく。そんな風に感じる。
 それから湯船にゆっくり浸かると疲れが湯にほどけていく。
 本当はもっとゆっくり入っていたかったけれどとても我慢できなくて身体を拭うのも早々に私達はベッドにもつれ込んだ。
 柔らかくて温かくてどこまでも気持ちが良い彼女の身体に深くのめり込む。
 肉体の快楽がすべてではないけれど、愛し合うことはとても大事だ。


 結局、汗をびっしょりかいて私達は溶け合った。
 事後の睦言のようにぽつぽつと話すのは七夕の話。
「そういえば、この時期梅雨だし、晴れたのを見た事が無いな。いつもいいところ曇り」
 温かな身体を抱きしめたまま彼女の髪に鼻を埋める。彼女の香りをかぐだけで胸に温かなものが広がった。
 好きな人と共に過ごせる事、その眩暈がするほどの幸福。
「でも、雨でもかささぎが橋を渡してくれて結局会えるからいいんじゃない?」
 くすぐったそうに身を捩って彼女が濡れた瞳で私を見返す。
「――そんなのいやだな。
 愛し合っていたら年に一度なんて我慢できない。
 だって、毎日一緒にいても別々の職場に引き裂かれて辛いのに」
 思わずいつも胸にしまって口にしないような事を口走ってしまっていた。相当、疲れているのかもしれない。
 理性が見境なくなっている。
「本当ね」
 けれども彼女はそんな私をからかうことなく嬉しそうに目を細め、頬を上気させて同意した。
 不意に訪れた恥ずかしいほどの甘い雰囲気に、そのくすぐったさに私達は知らずにくすくすと笑いをこぼした。
「ねえ、折角笹を買って来たから願い事書いたら? まだ日付が変わったばかりだから間に合うわよ。朝には片付けちゃうし……」
 ベッドに起き直って彼女が言う。下から見上げる彼女の裸身の扇情的な光景に私は盛りのついた獣みたいに喉を鳴らした。
 彼女を引き止めてもう1ラウンドにもつれ込むにはちょっと二人とも疲れすぎている。明日だって仕事があるのだ。
 二人で交代にさっとシャワーで汗を流してパジャマに着替えると私は渡された短冊に少しだけ逡巡しながら願い事を書いた。
 たくさんあるけれど、本当に必要な事はたった一つだけ。
 でも口に出すには恥ずかしい、その願い。
 バルコニーに出て笹に飾る。
 笹の葉が風でサラサラと音を立てて靡いている中、私の目に止まったのもう一つの短冊。もちろん、彼女が書いたものだろう。
 光量が足りずに目を凝らしても読みにくいそこへ書かれていたのは――。
 「ずっと一緒にいられますように」
 それは私が書いた願いと寸分たがわず、頭がぼうっとして目の奥が熱くなり、胸にじんわりと温かいものが広がった。
 私ばかりが彼女を求めているのかと思ったけれど。どうやら私ばかりではないらしい。
 サッシの開く音がして現れた彼女は冷えた発砲ワインのグラスを持ってバルコニーに出てきた。
 受け取って飲み干す。渇いた喉に冷えた炭酸が心地良い。
 暗くてよかった。
 私は滲んだ目元をそっと拭った。
 それから二人で笹の音を聞きながら無言で大都会の夜景を眺めていた。眠らない街。
 ふと、耳を打つ、優しい雨の音。
「ああ、やっぱり降ってきちゃったか」
「あら、でも、私、雨の匂い好きよ」
 サラサラとぽたぽたと。
 溢れる幸福な気持ちを胸に、自然が奏でる音に耳を傾けて居ると、隣から小さいけれど楽しげなハミングが。
 彼女が口ずさむのは『雨に歌えば』だ。
 それは私たちが生まれるずっと前の有名な映画の主題歌。
「雲に覆われて天の川は見えないけれど誰にも見られない逢瀬の方が彦星も織姫もホッとすると思うわ」
 ふとハミングが途切れたから彼女に目を向けると、疑いようもない愛情の溢れた眩しげな眼差しで彼女はにっこりと私に笑いかけた。

二人の日常

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