- ■ 花 火
仕事を午後半休して出かける予定だったのに突然のトラブルに気がつくと4時をとうにまわっていた。
制服を着替えてタクシーに飛び乗る。東京駅から新幹線に乗りながら電話をかけた。
「ごめん、間に合わないかも……」
「17時12分発?? じゃあ18時45分につくから……ええと、駅から徒歩20分ぐらいだから、多分、大丈夫。駅で待ってる……」
とっくに現地についてホテルで荷物をくつろげているあなたの携帯に電話をすると穏やかな返答が私の焦る気持ちを宥めてくれる。
私がふと漏らした一言であなたはまるでその辺に買い物に行くみたいに簡単に予定を空けてくれる。多分その分仕事を調整して家に帰れない日ができたりするのに。
あなたが帰って来ないんだったら、どこにも行かずに毎日あなたが帰って来る方がいいって私が言ったら、あなたは、
「そんな人生つまらないよ。私は君と一緒にいろんなことして楽しみたい。ただ家で一緒に寛ぐのだって勿論好きだけどね……」
そう言って私の頬をそっと撫でた。
時々、幸せすぎて怖いと思うことがある。幸せすぎて胸が苦しくなる時がある。それは、もしかしたらいつか失うかも知れないと畏れているからかもしれない。私達はずっと共に生きようと誓った仲なのに。それでもやっぱり心の底から永遠を信じていないのかも知れない。
一人で約一時間半の新幹線の旅。連日の深夜残業と猛暑に疲れきっていた私は外を飛ぶように過ぎるのどかな景色を見ることもなく熟睡してしまっていた。
携帯の振動に目が覚めるとあなたからの着信。
慌てて席を立ってデッキに出て通話ボタンを押す。
「あ、起きてた? 寝てるんじゃないかと思って……」
あなたは私の事を本当によく判っているんだと、心が弾む。今日のトラブルでささくれ立っていた心が柔らかく温かくなる。あなたが存在するだけで私は幸せになる。
「じゃ、改札で待っているから」
切れた携帯にほんの少し物寂しさを感じる。いつだってあなたとなにかしらででも繋がっていたいから。でも、もう数分でその声の持ち主に会えるのだ。昨夜は帰ってこなかったから一日半ぶりに。
駅は凄い人混みだった。
今まで一度も行った事はないけれど私でもよく耳にする有名な花火大会。
なのに不思議と私の目はあっけないほど簡単に人の渦の中からあなたを見つけてしまう。それが愛情なのだとしたら、恐ろしいほどに夢中になっているという事なのか。そう思うと身体中がかぁっと熱くなる。真夏で暑いからとかそういうことじゃなくて。この熱さはあなたへと向かう抑え切れない熱量。
お互いの荷物の中に浴衣を入れて来たのに、あなたは胸元にデザインのあるカットソーとシンプルな白のサブリナパンツ、足元は少しごついサンダルでリゾートっぽい感じで纏めていた。私は会社から直接来たという事もあって麻混の生成りのサマースーツ姿だ。足もストラップがついているオフホワイトのトウミュール。
私に気づいたあなたが手を上げて笑顔をこぼす。一瞬前のつまらなそうな顔が輝くような笑顔に変わる。その笑顔を引き出したのが自分だと思うとたまらない愉悦が湧き上がった。
「お待たせ」
そう言う自分の声に少しも疲れが滲み出ていないのが不思議だった。幸福な子供のような声。
「じゃあ、行こうか」
あなたはさりげなく私の手を取った。絡まる指先から私を幸せにする熱が流れ込んでくる。自惚れじゃなければ、多分私はとても愛されている。そう信じさせてくれるその手。
「手、繋いでもいいんだね」
「そりゃ、凄い人混みではぐれたら困るし、それにこんな所に知り合いはいないし」
それからあなたは隣を歩く私を見て、優しく目を細めた。
「何より私が君と繋がっていたいから……」
時々くれるそういう言葉が私を駄目な人間にする。あなたなしでは生きられない駄目な人間に。そしてそれを嬉しく思う自分に、不治の病だと思い知る。それは天にも上るほどの幸福と底のない僅かな不安。
「その、大荷物は??」
私は少しだけ強くその手を握り返すとあなたが肩から提げる大きなトートバックに話を振った。喉の奥だけであなたが猫のように柔らかに笑う。
「これから食べるお弁当とおつまみと、ビールと缶チューハイとカップ酒」
「うっわぁ、ちゃんぽんしたらべろべろになるーっ」
「べろべろになってもワンメーターでホテルだし、たまにはいいでしょ」
「そうね、タクシーがつかまればね」
この人出でとてもタクシーがつかまるとは思えない。そうしたらあなたはべろべろの私を背負ってホテルまで行くのかと想像して、思わず笑ってしまった。
川沿いに着いてなんとか場所を見つけて座る前に、既に花火が上がりはじめていた。大気を切り裂くような音に誘われるように夜空を見上げると、大輪の華が咲きみだれる。音と光のちぐはぐさにどこか現実世界から遠い場所で花火が行われているようなおぼつかない気持ちになる。
とても綺麗で大好きなのに、その散りゆく華は何故か切ない。
少し温くなってしまったビールで乾杯をしてお弁当をつまんで、あれが綺麗だとかこれが好きだとか花火を熱く語って、気がつくとあなたの肩に頭をもたせかけるようにして無言で花火を見上げている自分がいた。闇に滲む彩りがまるで夢の世界だ。
我に返って慌てて身を引いて周囲を見回すと、あなたの手が私の肩を抱くようにやんわりと私を引き寄せた。
「大丈夫、誰も見てやしないから」
もう一度私の頭を自分の肩にもたれさせて、撫でるように幾度も髪を梳いてくれた。私は花火から目を離して隣に座るあなたを眺める。この瞬間は永遠の一瞬。
――夜空に咲く大輪の華を夢見るように見上げるあなたのほの白い顔が花火に彩られて悲しいほど美しいかった。