□ 夜の雨
 久し振りの雨に大地と植物が歓喜の声を上げているようだった。乾いた空気が潤って、人にもとても優しい。張り詰めていた空気が緩んでほっとする。人心地つくというのはこういうことなのかも知れない。
 けれどもこんな日は出かけるのには少し不向きだ。それでも真っ直ぐに家に帰る気になれなくて、なんとなく最近のお気に入りのバーの扉を押し開けていた。
 心地良い音楽が流れるフロアを横切ってカウンターまで行く。女性のバーテンダーが私に気づいてにこやかに歓迎の声をかけて来た。
 「こんばんは」
 私も小声で挨拶し返してスツールに滑り込む。
 私の声に顔を上げたのは隣でぼんやりと頬杖をつきながらグラスを長い指先で弄んでいた女性。
 「あら、久し振り」
 華やかな美貌の長身の女性。このバーの常連だ。
 彼女がいるから私はときどき定期的にここに顔を出す。
 恋愛感情ではない。多分、まだそうじゃない。でも、彼女はとても私を惹き付ける。芳しい花が蜜蜂を呼ぶように。
 珍しく酔って潤んだ瞳と緩慢な動きに私が首を傾げると聡い彼女が唇を蠱惑的に吊り上げた。
 「ふふふ、今日はちょっと自棄が入ってるの」
 言葉のわりには悲壮感が漂っていない、明るい自棄酒??
 「恭ちゃんとうとう諦めるらしいのよ」
 私の前にいつものカクテルを置いてバーテンダーが小声で私に告げる。もちろん内緒話じゃないから隣の早瀬さんにも聞こえている。
 この早瀬恭子さんはバリバリのキャリアウーマンで百戦錬磨の恋の達人としてある筋では有名だ。けれども本当の恭子さんは来るものは拒まず、去るものは追わないところがあるのは事実だけれども、10年前からたった一人の人を一途に愛し続けているとても純粋な人だ。
 「ええーっ、諦めちゃうんですか??」
 以前に恭子さん本人から彼女の恋愛の話を聞いていた私はびっくりしてまじまじと恭子さんの美貌を見つめた。日本人離れした彫りの深い顔立ち、睫毛の長い大きな目、ふっくらと肉感的な唇。どれをとっても私の好みにぴったり。でも、恋愛感情は湧かなかった。それは多分きっと、恭子さんの恋は聞くだけでもとても切ない恋物語だったから。応援したい気持ちがあっても恋に落ちている場合ではなかったから。
 「うん、諦める」
 大人の恭子さんがまるで子供みたいに顔をくしゃくしゃにして笑う。それは泣いているような笑顔だった。
 「ずっとずっと好きで、いつか振り向かせようと思ってたし努力もしたけど、私の入る隙は1ミリもなかった」
 グラスについた水滴を指先で辿りながら恭子さんがポツリポツリと話し出した。
 「どうして急に諦めるなんて??」
 「だって」
 彼女が爪先で軽くグラスを弾く澄んだ音が小さく響いた。
 「行っちゃったのよ、彼女。恋人を追いかけてニューヨークに」
 もう会えないわけじゃないし、2年後には帰ってくるのだけれど、それでも彼女をそこまで動かした愛のパワーに打ちのめされてしまったのだという。
 「――ま、そういうところが好きでたまらなかったから、仕方がないんだけど」
 クスクスと鼻で笑っても恭子さんはとても綺麗だった。そう言えばこの十年間、ただ一人の人を愛し続けていて、それでも恋人は幾人か居たはず。
 「駄目ね。私の心の中に他に誰かが居るってみんな気がついちゃうの。私の寂しさがみんなを傷つけてしまったのよね」
 でも、私には恭子さんの気持ちがよく判った。愛する人がいても片思いだったらとても寂しい。その寂しさを誰かに埋めてもらいたいと思うのは罪なことなのだろうか?
 恭子さんが最後にポツリと言った。
 「彼女が幸せだったら、いいの、私は。本当は私が幸せにしてあげたかったけど……」
 俯いて長い髪の向こうに隠れてしまった目に涙が光ったのは私の見間違いだろうか。
 その瞬間、私の胸がずきりと痛んだ。
 相手は美人過ぎるしバリバリのキャリアウーマンだしスタイルも抜群で頭もいい。私とはとても吊り合わない。
 吊り合わないのに、私は、……恋に落ちてしまった??
 「ね、恭子さん」
 急に騒がしくなった胸の鼓動に負けないように私は声を振り絞った。
 「もし迷惑じゃなかったら私に慰めさせて――」


 久し振りの雨の日、私は一瞬で恋に落ちた。

二人の日常

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