■ 帰 宅
 「ただいま……」
 と言って帰ってきたあなたの暗い顔を見て、あなたが話してくれる前からおおよその結果は想像できた。それはもうここ毎年の事だったし。
 私は先に旅の疲れを流すようにバスルームへあなたを押し込んで、あなたの事を考えながらあなたのために作ってあった食事を温めなおす。テーブルに並ぶのはあなたの好きな料理ばかり。私の身体はあまりにも自然に動いてあなたの好きなものを作ってしまうから。
 バスルームから出て来たほんのりと湿ったあなたの香りがかすかに漂うと私の胸がしらず震える。たった2日離れていただけなのにどれだけ私はあなたが必要なのだろう。
 「座って。先に食事にしましょう。
 話はおなかがいっぱいになってたっぷり眠った後でも遅くは無いでしょう?」
 お腹が空いていても、睡眠不足でも人間はつい後ろ向きにいろいろ考えてしまうものだから、隙間も無いぐらいお互いを埋めあって、幸せに蕩けてしまいそうな時に二人の心が揺らぎようが無い時に話したり、話を聞いたりするのがきっと一番いいから。
 どんな事があっても私達にはお互いを抱き締める温かな腕と心があるから。だから大丈夫。過去の困難にも未来の困難にも二人だったら立ち向かえる。
 「美味しい」
 私の手料理を口にして柔らかく口元を綻ばせたあなたの笑顔が花びらのようで、私はあまりの幸福に熱い吐息をついた。


 帰るなり優しく抱き締められて、バスルームへ送られた私は熱めの湯船に浸かって旅の疲れを落す。疲れがじんわりとお湯に溶け出していくようだ。湯からほんのりと立ち上るリラックスするようなハーブの香りに目を閉じて昨日今日の事を反芻する。
 反対する事によって私が諦め、ノーマルに戻っていくのではないかと期待していた家族。
 説得しようと通い続ける事によっていつか許してもらえる日が来るのではないかと期待していた私。
 それは永遠の平行線なのだ。
 すべてを告げて私の両親に認めてもらえないと判ったら彼女はどんな顔をするだろう。どんなに辛い思いをするだろう。
 そう思うと心が重い。
 それでも私はありのまままを告げなければならない。
 二人でこの先一歩でも少しずつでも前進するために。
 お風呂から上がると食事の支度が出来ていて、テーブルの上には私の好きなものばかりが並べてあった。
 そして私ははじめて自分が飢えている事に気がついた。
 そう言えば今朝、朝食後に弟と話をしてからいくつかの交通機関を乗り継いで帰宅したのだけれど、その間ずっとひどくぼうっとして考えが纏まらず、何も口にしていなかった。何かを食べると言う気にもならなかった。
 なのにどうしてだろう。
 彼女が目の前にいてその柔らかな眼差しが注がれているだけで世界がとても鮮明になって現実感を持ち、私は安定する。
 「美味しい……」
 私が感嘆の声を上げ、実は昼食をとらなかったことを告げると彼女は目を瞠った後少し心配そうな顔になって、
 「食べたくなくても食べようとしなきゃ」
 彼女らしい言葉で私を咎めた。彼女のすべてにおいて前向きな姿勢が好きだ。柔らかで優しいのにしなやかで強靭だ。何か障害や困難があっても彼女はその中でなしうる最善の方法をとる。それは前向きな最善の方法なのだ。いつも私は彼女のそんな姿にハッとさせられる。
 それを自然になしえる彼女の存在そのものが私を幸福にする。
 穏やかな音楽を聴きながら食後のお茶をゆっくりと飲む。
 一つ一つの日常の儀式を辿ってゆっくりと現実に立ち返る。
 そう、既にこの生活が日常で、田舎での出来事が非日常なのだ。欠かせない日常ではないところでの出来事。田舎は実際の距離もそうだけれど、もう、ひどく遠い。
 誘われるままにベッドに身をゆだねて彼女を抱き締め、長い髪に鼻を埋める。とろりとした蜜のように芳しい彼女の甘い匂いに昨晩殆ど寝ていなかった事を思い出す。
 彼女と一緒ではない時の私はまるで機械仕掛けの人形のようだ。感情をどこかへ置き忘れてしまう。
 彼女のほっそりとした指が私の髪を優しくくしけずるのをひどく心地良く感じながら私は泥のような眠りに落ちていた。


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二人の日常

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