■ 空気の存在
 大きな仕事の納期が近づいてきて、家に帰れずに会社に泊まりこみ、それも平均睡眠時間三時間と言う日々が続いた。
 「駄目だ、もう耐えられない」
 薬の切れた中毒患者のようにぶるぶると震えながら私が立ち上がると、一斉にフロア中の人間が私を見た。
 全員目の下に隈取が出来ていて、非常に怖い。でも私も同様だから他者のことは笑えない。
 「どうした?」
 課長が声をかけてきた。いつもパリッとしたイイオトコ風の課長も今は見る影もなくなっている。
 「スイマセン、今から一度家へ戻っていいですか??」
 「急用か?」
 「そういうわけじゃないんですが、禁断症状が出はじめて仕事が手につかないんです」
 「禁断症状??」
 「もう一週間以上、顔も見てないし声も聞いてないし、心がからからに干乾びてる感じなんですよ。イライラして仕事が手につかなくて駄目です。寝なくてもいいですから、仮眠の時間で行って帰ってきますから、戻らせて下さい、お願いしますっ!」
 家にはそう、家には可愛い恋人がいる。
 目に入れても痛くなくて、でも今では空気の存在のような。
 それはいてもいなくても一緒と言うのではなくて、“無ければ死んでしまう”必要不可欠なものとして、私の中に存在する。
 「若いなぁ」
 と課長は苦笑して一度戻ることを承知してくれ、その上出社は翌朝の10時でいいと言ってくれた。
 勿論私だけではなく希望者は全員同様にしていいと言うことで私は心置きなく逃げ出すように会社を飛び出した。
 電車は既に動いていない時間だったのでタクシーをつかまえて帰路につく。
 深夜三時、マンションに着くと静かに鍵を開けて家の中に入る。とりあえず寝室に直行。
 淡い常夜灯にぼんやりと照らされて眠る恋人を息を潜めて眺めた。8日ぶりだ。
 「ただいま」
 口の中だけで呟く。
 恋人の長い髪を指でそっとくしけずり、鼻を埋める。
 胸いっぱいにほんのりとかおる甘やかな体臭を吸うと砂漠に水が染み渡るように、私のかさかさした心が潤って歓喜の声を上げる。
 思った以上に私は自分が飢えていたのだと、気付き、苦笑してしまう。
 帰ってきたのは正しかった。今だから判るけれど私はぎりぎりな感じだったらしい。
 起こして、恋人の朗らかな声と花が咲くような笑顔が見たかったけれど、彼女には彼女の生活や仕事があってこんな真夜中に起こすべきじゃないと何とか理性が勝った。
 できるだけすばやくシャワーを浴びて着替えるとベッドに潜り込み温かで柔らかないい匂いの身体を抱きしめる。
 それだけで心が温かく穏やかになってふんわりと優しい気持ちになる。
 ずっとそうして彼女をじっくり感じていたかったけれど、ここずっと続いた寝不足のため、ゆらゆらと心地良い睡魔に急速に襲われて、私は意識を手放した。



 翌朝目覚めると、勿論彼女はいなかった。
 けれど家中に彼女の温かな気配が残っていて、思わずほっとしてしまうようなコーヒーの香りが漂っていた。
 ダイニングにはまだ冷め切っていない朝食。
 たとえこの場所にいなくても彼女は私を満たしてくれる。
 頭の天辺から手足の指先まで、私はくまなく彼女に満たされている。
 心の奥底から溢れてくる熱く強いものに揺さぶられて、私はその場にしゃがみこんで目を閉じた。
 これ以上の愛があるわけがない。
 しばらく幸せな余韻に浸った後、立ち上がると、
 「よし! あと9日頑張るか!」
 自分の頬を両手でパチンと叩いて気合を入れた。


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二人の日常

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