■ クリスマス
 気づいたら窓の外を川のように流れる車のヘッドライトを眺めていた。
 時刻はもうすぐ、22時。
 ほんの数分の逢瀬だった。
 それからどこをどう帰って来たのかすっぽりと記憶が抜けている。多分、無意識に帰り着いたんだと思う。今までも気をとられることがあると時々そんな事があったから。
 ぐるると鳴った腹の虫にまだ晩御飯を食べていない事に気づいた。
 今日は一人だからお弁当を買って帰るか、外で食べてから帰ろうと考えていたのに、無意識に家に戻ってしまうなんて。
 それほどにあなたと暮らすこの家は私のすべてになりつつあると言う事なのかもしれない。
 自分ひとりのために食事を作る気がしなくてそのまま窓の外をぼんやり眺めているとインターフォンが鳴った。
 クリスマスの夜に尋ねてくる相手を思い浮かべる事ができなくてモニターの傍に寄る。
 そこには誰も映っていなかったけれど、玄関からはがちゃがちゃと鍵を開ける音がしたから私は早足で玄関に向かった。
 「ただいま」
 息を弾ませてあなたが私を抱き締める。
 「だって、帰ってくるの明日だって……」
 驚きと興奮で何を言えばいいのか咄嗟に失念した。
 「ん、そうだったんだけど何とか目処がついたから先に帰ってきた。どうしても今日君の顔が見たかったから」
 そう言って重ねられた唇は凍えていて、私を抱き締める身体からは冷気が伝った。
 「お帰りなさい。――ここは寒いからリビングで話しましょう?
 ご飯は食べてきた? 先にお風呂に入って温まる?」
 リビングに誘いながら問いを重ねる。
 「ご飯は新幹線の中で軽く食べて来た。お風呂は寝る前でいい。ケーキ買って来たから一緒に食べよう」
 手袋とマフラーを外してコートを脱いだあなたが寒さでこわばった顔を解すようにゆっくりと微笑んだ。
 「ケーキ!!」
 私が喜びの声を上げるとあなたの笑みが深まる。
 「大量生産のクリスマスケーキだけどね」
 「もしあなたが週末に休みがとれそうなら、改めてパーティしたいけど……」
 「ごめん、無理。今日わがまま言っちゃったから来年までもう休めない」
 申し訳なさそうなあなたに私は首を振って応えた。
 「いいのよ、あなたが謝らないで。仕事だもの。
 でも、今日少しでも一緒にいられるのは凄く嬉しい。だって今日は特別な大切な日だもの」
 私は受け取ったケーキを一度テーブルの上に置き、あなたの首に抱きつくように腕をまわして、ほんの少し背伸びしてあなたにキスする。
 「お誕生日おめでとう。あなたが生まれてきてくれてそして私と出会って私を愛してくれて、とても嬉しいわ。有難う……」
 あなたがこの世に生まれてきてくれた事を私以上に誰が感謝すると言うのだろう。あなたの誕生日なのに私はあなたというこのうえもない最高のクリスマスプレゼントを貰っているに等しいから。
 ついばむようなキスを何度もするとあなたは私をぎゅっと抱き締めて誘うように舌を伸ばしてきた。あなたの薄いひらひらとした舌に自分の舌を絡めると食いつくようにあなたの口の中に引き込まれる。温かで湿っていてぬるぬるしていてとても気持ちがいい、そこ。
 首の後ろがじんわりと痺れて下半身が熱を持つ。あなたに抱き締められてあなたの鼓動を感じてあなたの香りを吸い込むだけで私の中からいろいろなものが溢れてくる。
 私はそれまで考えていた今日の出来事をすっぱりと忘れてうっとりとした気持ちで最愛の恋人にその身を預けた。


 二人でバスルームへ行って身体を洗いあったのはそれから1時間後、二人でシャンパンを飲みながらケーキをつまんだのは日付が変わってからだった。


 それは新幹線に乗るまでのごく僅かな時間。
 東京駅構内の指定された場所で待ったのはほんの数分。
 年配の和装の女性が躊躇うように声をかけて来た。
 「はじめまして」
 軽い会釈と共にかけて来たその声は年齢が滲み出てはいたけれど彼女の娘であり私の恋人であるあなたの声によく似ていた。声が似ていると言う事は口付近の骨格も似ている。恋人の母親だと言う人はあなたによく似ていてそこかしこに色濃い血の繋がりを窺わせた。
 「今日は突然お呼びたてして申し訳ありません」
 「いいえ」
 私が慌てて首を振ると、その貌にホッとしたような柔らかな笑みが浮かんだ。
 「私はあの子の母として夫の妻としてあなた達の事を認めることが出来ません。
 ですが、一人の人間として、女として、あの子とあなたに幸せになって欲しいと願っています。
 一生とか、永遠とは申しません。あなた達の心が共にある限り一緒にいて、二人が幸せでいてくれたら……」
 「お母さま……」
 その手をそっと差し出して彼女は触れていいかと私に許可を求めた。頷くとやんわりと優しく私の両手を彼女の両手で握って、
 「あの子を愛してくれて有難うございます。あの子と一緒に生きてくれて有難うございます。あの子を一人にしないで下さって……どうも有難う……」
 私の手を握る手は暖かく、その貌は母親の慈愛に満ち溢れていた。
 「もう会うことは叶いませんが一目あなたという方にお目にかかることが出来て良かった。ここに来て下さって本当に有難うございます」
 「私もお母さまにお会いできて良かったです。会っていただけて嬉しいです」
 ほんの数分の短い、短すぎる逢瀬。それでも一緒に上京して来て共に新幹線で帰っていくお父さんに気づかれないように抜け出してきた精一杯の時間。きっとお父さんもお母さんの行動に薄々は何かを感じているのではないかと思う。そのお父さんに咎められない許される最大の時間であるだろうほんの数分。
 慌しく別れを告げられ、私の手元に残ったのはどこか外国の綺麗な絵葉書に几帳面な字で書かれたメッセージ。そこにはあなたの実家の住所や電話番号、何かあった時のあなたの弟さんの連絡先も書かれていた。
 今日と同じ明日が来るとは限らないから。
 そう言って渡された、それ。
 私も咄嗟に鞄の中を漁ってオフ会用に携帯の番号とアドレスだけが記された名刺を取り出し「捨てても構わないから」と押し付けてしまった。
 私の名刺を大事そうにハンカチにくるんでバッグにしまい、お母さんは去って行った。
 あなたという人をこの世に生み出してくれた人に、今日この日に会う事が出来て良かった。


 ――誕生日、おめでとう。


『大晦日』へ >>

二人の日常

Copyright(C)不知火 あきら All Rights Reserved.
Designed:LA   Photo:たいしたことないもの