- ■ 二人の行方 1
「――仕事、辞めようかなぁ……」
「ええーーーっ!!」
ぽつりと漏らした独り言に背後から驚きの声が上がって私は飛び上がらんばかりに驚いた。まだ冬なのに全身にぶわりと汗が噴き出す。
「ちょっとちょっと、どういうことよ。もしかして結婚とか??」
唯一の生き残りと言える同期がそこにいた。入社して十年、結婚しないで働いているのは私と彼女だけ。
「違う違う、いろいろ思うところがあって……」
「あ、そっか。――結婚、出来ないんだもんね」
私は辺りを見回してからコクコクと頷いた。幸い定時はとうに過ぎてフロアに残っているのは私と彼女だけだった。すべてをありのまま話しているわけじゃないけれど彼女には一生を共にする相手がいることとその相手とは結婚は出来ないという事を告げている。だからうすうすは“不倫”か“同性愛”かどちらかだとは予測がついていると思う。それでも私への態度を変える事がなく接してくれる。そんな彼女をすこしがさつだけれどさばさばして素敵だと思う。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、あなたに似ている。
「で、思うところって??」
「あ、ううん。……」
言い渋る私に彼女は場所を変える事を提案した。
「そう言えば、お腹ペコペコ」
「でしょ。もう8時半過ぎてるし。仕事の能率を考えたら帰ってしっかり休んだ方がいいよ」
急ぎの仕事じゃなかったら、と言って彼女がウインクする。
ウインクが滑稽じゃない日本人なんてなかなかいないだろうな、と思いながらも私は憂鬱な気持ちを振り切るように立ち上がった。仕事は溜まっているけれどどうしてもという急ぎの仕事はない。それに、第三者の意見が欲しいところでもあったから。
会社の近くの女性客が多い隠れ家みたいなバー。入社以来何かあるたびに私達はよくそこに長々と居座って話をした。私の家には恋人がいるし彼女の私生活は良く知らないけれど華のある美人だからきっと待つ人がいるのだろう。
「来週から一ヶ月海外研修??」
カクテルの淵の口紅を指先で辿るように拭っていた彼女は不意に顔を上げた。
「呆れた。一ヶ月が我慢できなくてついてでも行く気??」
私は首を振ると手元のグラスを見つめた。
「一ヶ月は辛いし我慢できるか自信はないけど、そうじゃなくて……」
「あ、は〜〜ん、なるほど。そう言えばあそこの会社って海外転勤の辞令が出る前に研修に行かされるって聞いたことある」
不思議と情報通の彼女がしたり顔で推察する。
「やっぱり、他社の人間も知っているくらい有名な話なんだ……」
私もいつだったかそんな話を小耳に挟んだことがあった。でも、あなたに直接面と向かっては聞けなかった。あなたから私に伝えてくれないことがとても怖くて。
「で、どうするの? 2年とか3年とかの期間で行ってくるわけでしょ?」
私は頷いて手元のグラスを傾け、中の氷をカラカラとまわした。こんなふうに私の思考はぐるぐると、どうどうめぐりをしている。
ついて行きたいと切望する私とついて行って自分に何ができるんだと葛藤する私。
「普通の恋人同士だと結婚してついて行っちゃえば問題ないんだけどね」
彼女がぼそりと呟いた。独り自分の思考に沈み込んでいた私はハッとして我に返る。ずっとずっと朝から晩まで同じことばかり考えている。
どうしたらあなたと一緒にいられるか。あなたから引き剥がされては片時も生きてはいけないと……。
「結婚は無理だもの」
「そう、だったわ……」
彼女は耳の後ろをかきながら視線を宙に彷徨わせた。
「無粋で申し訳ないんだけどさ、それって相手から直接聞いたの?? それとも勝手にとり越し苦労しているだけ?」
私は首を振って応える。
「――聞いたのは来週の海外研修の事だけ」
「らしくないなぁ。その海外研修と転勤のシステムだって100%なわけじゃないでしょ? 何通りかのパターンがあると思うよ。なのに確認せずにうだうだしているのってあんたらしくない。
いつもさ、にこにこして“大丈夫、大丈夫”って言ってるあんたを私は結構気に入っているんだけど。
あんたをさ、そんな風に弱くしてしまうんだったら長い付き合いだって言ってもあまり良い付き合いじゃないんじゃない?」
容赦なく踏み込んできた言葉にかっとなって、他人にそこまで言われたくないと怒鳴りそうになり、ハッとした。
「――私、変わった??」
何度か丁寧に呼吸を繰り返して気持ちを落ち着かせ、怒鳴る代わりに問いかけると、彼女は拍子抜けしたような、ばつが悪いような困惑した表情と眼差しで私を眺めた。
「根本的にはそんなに変わってないと思う。でも、今のあんたはすごく揺らいでる。危うい感じで」
グラスの中でさざなみ立つ黄金色の液体を喉に流し込んで彼女は続けた。
「それは仕方が無いことだと思う。未来に続くとても大事なことだからさ。
ただ、もっと大事なことを忘れないで。ちゃんと相手と向き合って話し合うこと。それがスタート地点だから」
飲み干したグラスを置いて彼女は帰ると立ち上がった。その唇に浮かぶ苦笑に本当に私はずいぶん自分を見失っていたのだと今更ながらに気づかされた。