■ 二人の行方 2
 仕事を辞めようと思った。
 けれどもアルバイターではないから「明日から来ません」と言うわけにはいかない。膨大な量の引継ぎは早くても一ヶ月はかかるだろうし、海外転勤ではなくたかだか一ヶ月の海外研修だ。これを断るために仕事を辞めようと考える人間はおそらくいない。
 例えば血縁者が危篤で明日も知れぬ身であるとか、自身が身体的欠陥を持っていて気圧の関係で飛行機に乗れないとか、そういう理由でなければこの海外研修は断ることが不可能なのだ。
 たかだか一ヶ月の研修。
 それを私がこんなに不安に考え込んでしまうのはその研修は社内では通称「婚前ツアー」と呼ばれているから。
 研修で纏まるか、その後の海外転勤で纏まるか、遅いか早いかの違いだけでかなりの確率で同行した者はゴールインする。
 それだけならまだいい。例外になればいいだけだから。
 けれども今回の同行者に他意があるとしたら……。
 というか、ある。他意があるのだ。
 だって、宣言されてしまったのだから。
 ――結婚しよう。
 って……。
 相手は同行者を私に決定した張本人で2歳年下の同僚。彼とは過去にいろいろあったのだけれど最近は私にちょっかいをかけてこなくなったからすっかり諦めてくれたものだとばかり思っていた。
 因縁浅からぬ間柄の上、社内でできる話の内容ではなかったので会社帰りに落ち合って食事を取ってからバーに移って話をした。
「君から誘ってくれるなんて嬉しいよ」
 一般的にかなりの良い男にはいる部類で同期では出世頭、社内の人気ナンバーワンでもある。特定の恋人を持たず、社内恋愛をしないという事をモットーにしているという噂の男。
「込み入った話だから仕方がないでしょ」
「研修の件だったらもう決定しているから今更俺が覆すことは出来ないよ」
「判っているわ。――でも、どういうつもりなの??」
「君と結婚しようと思ってさ」
 私は苛々して少し声を荒げた。
「知っているでしょう?? 私には恋人がいるし同性愛ゲイだから恋人は事実上の伴侶だって事は!」
 以前に猛烈に迫られた時に私は彼を諦めさせるために私と恋人の仲を洗いざらい話したのだ。でないと彼はけっして諦めてくれなかった。
 彼はひょいと肩を竦めた。
「君は彼女と出会うまではヘテロだった。今後彼女と別れないと言う確証はないし俺もそろそろ結婚して落ち着こうと思っている。だが相手は君しか考えられなかった。君に彼女と別れろとは言わない。俺と結婚しよう。いつか俺の方を愛してくれればそれでいい」
 そんな事が本当に許されるのだろうか?
「人間には“情”がある。始まりは愛情ではなくても“情”は育つよ。俺と二人で家庭を作ろう」
 私はただただ首を振った。誰が許そうと私自身がそんなことを許せるわけがなかった。
「永遠はあるわ。私達に別れは来ない。だからあなたと結婚する気もないし、したくもない」
「君を愛しているんだ」
「私は彼女しか愛せない。彼女と一緒じゃないと幸せになれないのよ」
 5年前と同じ平行線の会話が続いた。
「君を幸せに出来るのは俺だけだ。この研修と転勤で彼女から離れてよく考えてみてくれ。彼女を愛しているのではなくてただ居心地がいい場所に執着しているだけだと判るはずだ」
「違うわ!! あなたは私を幸せに出来ない。誰も私を幸せにすることなんて出来ないのよ。幸せは誰かに与えてもらうものじゃない。二人で築くものだから」
 それを私に教えてくれるのは彼女だけだった。誰かに与えられる幸せは本当の幸せなんかじゃない!!
「そう言って一生子供も生まずに家族を作らず誰からも祝福されずに生きて行くつもりか? 俺だっていつまで待てるか判らない」
「――待っててなんて頼んだ覚えはないわ」
「そうだな、それはその通りだ。俺が好きで待っていた。君以外の誰かと結婚するなんて考えられなかった」
 彼にさす暗い影に彼もまた何かを抱えているのだと悟った。けれども私が何をしてあげられるだろう。彼の気持ちに応えることは到底出来ない。その瞬間私と言うアイデンティティが世界から消滅してしまう。私が私であることはすなわち彼女を愛し続けるということそのものだから。
「今すぐにではなくていい。答えは3年後に。俺はそれまで諦めないし、君は君の固い気持ちを俺から守り続ければいい」
 彼が私とではないと幸せになれないと言ったように私は彼女とではないと幸せになれない。その気持ちは揺ぎ無いものなのにどうしてか私の不安は少しも払拭されない。
 帰り道、駅からマンションまでとぼとぼと暗い気持ちで考えながらゆっくりと歩いた。
 今日こそ彼女に告げよう。一ヶ月の海外研修の後、4月の半ばからは海外転勤になるだろうということを。ずっと言えなかったその事を。
 近づいて来たマンションの私達の部屋から灯りが洩れている。それは彼女がそこにいるという証。見上げただけで心がほんわりと暖かくなるその灯りに、私は足早にマンションのエントランスを抜けてエレベーターに飛び乗った。


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