密やかな吐息 参
○ 太陽 ○
椎名リカコが学園のアイドルであるならば
放課後、教室から校庭を見下ろしていると背後から声がかかった。
「……巴ちゃん見てるの??」
リカコはびっくりして飛び上がってしまった。
「ヒメ!」
級長の姫野凛だった。職員室へ日誌を出して来て戻って来たところだ。放課後の教室はもう他に誰もいない。
リカコはこの美人の級長が少し苦手だった。全てを見透かすようなゆるぎない眼差しをしているのだ。
窓の外にはバスケットコートがあり、バスケ部が部活をしている。そこには件の有栖川巴がいた。
伸びやかな長身、艶のある短い黒髪、陽に焼けた健康そうな肌、長い手足。けれども少年っぽいわけではない。丸い少し大きめな胸、ほっそりとした腰。意志の強そうな黒曜石の双眸。少女が女性に変わる中間の独特な惹きつけられるような不思議な魅力がある。
そんな有栖川巴は実にさっぱりとした性格だが、騒がれるのは非常に嫌いらしくこっそりひっそりと大ファンクラブがある学園(女子部限定)のヒーローだった。
「アリスに憧れない人なんていないと思うわ……」
リカコは桃色をしたすべすべの頬を少しだけ膨らませて俯いた。姫野凛の眼鏡の奥の双眸が笑みに細められる。
「そうね、巴ちゃんは素敵よね。まったく同感だわ」
どうして惹かれるのか判らないけれど、まるで太陽を追う花のように誰もが惹かれずにはいられないのだ。
「ヒメも…??」
顔を上げたリカコの驚きの表情に凛は苦笑する。自分はロボットか何かのように思われているのだろうか。
「巴ちゃんが特定の人物に向ける切ないような優しい眼差しが、素敵だと思うわ」
その貌をいつもいつも間近で見ているのだ。
「そっか。彼氏持ちから見てもアリスは素敵なんだ……」
彼氏持ちというのは誤解だったがあえて凛は否定しなかった。
校庭から歓声が聞こえて、二人は声に惹かれるように振り返り、言葉も無く見下ろした。ちょうど有栖川巴がシュートを決めたところだった。全身の筋肉を自由自在に操る姿を見るのはとても気持ちがいい。
「――私、アリスに嫌われているのかなぁ」
視線を巴に向けたままポツリとリカコが言った。
「なんか私だけ名字で呼ばれてるの、変だよね」
基本的に巴は名前を呼び捨てにする。仲の良い友達の間で名字で呼ばれているのは多分リカコだけだ。
「この前の話、聞いてたんだ」
凛の問いにリカコはコクンと頷いた。その話題は先日凛が巴に振ったものだ。
「教室に入ろうとしたら聞こえちゃって。何だか入り辛くなっちゃった……」
ふふふと笑って凛はリカコの肩を軽く叩いた。
「学園のアイドルを嫌う人間なんていないわ。それにもし嫌いだったら巴ちゃんは傍にも寄らない人でしょ。良いじゃない“シーナ”って可愛いわよ。私もそう呼ぼうかな…」
独特のイントネーションで巴の口真似をする。
「駄目!」
何故だかとっさに叫んでしまってリカコはうろたえた。凛に言われて不思議にそれを特別なように感じてしまったのだ。真実はわからないけれどもしそうならそれはちょっと気分がいい。憧れの“アリス”に特別に呼ばれている。きっとそんな事ではないと判っていても、少しドキドキしてほんわかと嬉しい。
凛が別れを告げて帰っても、リカコはバスケ部の練習をただひっそりと独り眺め続けていた。
「そういえば、アリスの事…“巴ちゃん”って……」
ふと、姫野凛だけがそう呼んでいる事に、リカコは気付いた。