追憶 〜白い壁の部屋で〜
深夜の電話に私は叩き起こされた。
それだけでも不安なのに、電話口の声は恐ろしく暗く沈鬱だった。
総毛立ち、全身の血が音を立てて引いていく。
その後どうやって部屋着から着替えて、どうやって病院へ駆けつけたか覚えていない。
気がつくと集中治療室の前で不安そうにさざめいている少女の家族や、親戚の下へと辿り着いていた。
「先生」
その声は私に電話をくれた声だ。
見るとそれはあの少女の幼馴染の女生徒だった。
「さっきまで意識があったんですけど、今は……」
ふるふると首を振る。
「あやが、どうしても最後に先生に会いたいって言うから……呼び立ててすいません」
まるで保護者か母親のようなその言い方に私は自然と両腕で自分を抱き締めた。でなければその場に蹲って泣き出してしまいそうだった。
何時間そうしてただろう。
少女の両親が恐縮がって帰るようにうながしてくれたがとても帰って眠る気にもなれず――帰ったって寝られるわけがないから――安否を気にしながら悶々と家で一人で気をもむのならば、ここで待っていた方がよかった。
深い夜の闇が薄まり、空は紫色にかわり、やがて暁に夜が払拭されていく。朝の頼りないような光でも朝日を目にするとふと張り詰めていた心が僅かに緩むのを感じた。
集中治療室の扉が開く。
「峠は越えました」
今は小康状態を保って眠っているとの事だった。
私は女生徒に手を引かれるようにして気密室に移動した少女の傍に近づいた。
少女が入院して、一ヶ月超。
始めに何回かはお見舞いに行った。
でもだんだんと生気を失っていくその姿を見るのが辛くて、忙しいという理由でここ2週間、一度も見舞いに来なかった。
漂白されたように生気の失われた青白い顔。目を開けて微笑んでいないというだけでこんなにも別人のような印象になるのだろうか。
「あや、先生が会いに来てくれたよ」
眠っているのにお構いなしに女生徒が囁くように眠る少女に声をかけた。
それは思えば奇蹟のような出来事だった。
僅かに震えた睫毛が、密やかに吐き出された息が、ぴくりと動いた指先が覚醒の兆候を示していた。
「あや!」
女生徒の悲鳴のような叫びがどこか遠くで聞こえた。
瞬間的にこの空間に自分と少女しか存在しないかのように錯覚した。
うっすらと開かれた少女の目はまるで夢見るように緩んでいた。
「すき。……せんせい、すき……」
耳を寄せなければ聞こえないような小さいな声でうわ言のように繰り返す。
震えながら差し出された痩せた手を咄嗟に握り、私は何も考えずに口走っていた。
「愛してる、私も愛してる。だからいかないでっ!!」
場所も立場もすべてを忘れて私は叫んでいた。血の気の失せた真っ白な顔が僅かに笑みに綻ぶ。あの生き生きとした笑顔ではなかったけれどその満足そうな顔に私は胸を衝かれた。
知っているのだ。
この少女は知っている。
「いや、嫌よ、いかないで! 愛してるのよ!」
ほんの僅かに私の手を握り返すと静かに少女の瞼は下り、その手は力を失った。
「あやっ!!」
耳の傍で悲鳴のような呼び声が聞こえる。
ほぼ同時に医師達が病室に駆け込んできた。
少女が目覚めて、幼馴染である女生徒が叫びながらナースコールを押して少女の容態を告げ、医師達が駆け込んで来るまでの時間はほんの1分も無かっただろう。
私と少女にはそれだけの時間しか与えられなかった。
どうして、時間が残り少ない事を知った時に行動を起こさなかったのだろう。
どうして少女が入院した時に毎日会いに来なかったのだろう。
少女の衰えが怖かったから?
世間体が気になたっから??
そんな事はどうでも良かったはずなのに、もう二度と戻らない、失われてしまうと判っていたならば……。
「先生、来てくれて、ありがとうございます。最後に、会えて、あやも、……幸せ、だったと、思います……」
声無く涙を流しながら、幼馴染の女生徒が私に頭を下げた。
私は同じように涙を流しながらゆっくりと首を振ると、彼女の前で両腕を広げた。
私達は同じ最愛の人間を亡くした同士だから。
彼女はぶつかるように私の胸に飛び込んできて今度は激しく身を震わせて嗚咽の声を上げた。
その背中を抱き締め、頭を撫でて、私も一緒になって泣いた。
そんなに泣いたのは生まれて初めてだった。