INDEX   ABOUT   TEXT   BLOG

 忘れえぬ夏

  1話    2話    3話    4話    5話
  6話    7話    8話    9話


忘れえぬ夏 (1)

 土煙のもうもうと上がる舗装されていない道から陽炎がたつ。
 片側の林からは襲いかかって来るようなセミの大合唱が耳を劈いた。
 ――変わらない。
 夏香は長い吐息をついて、じりじりと焼け付くような真夏の日差しの中、重い足を前に進めた。
 夏休みの帰省という形をとってはいるもののそれは真実ではない。
 老いた両親に会社を辞めて来たとも言いづらい。
 そして言う気もないのだ。
 夏に実家でゆっくりし秋になったら新しい仕事を探し、決まって落ち着いてから両親には真実を告げようと思っている。
 会社を辞めたからといって翌日から路頭に迷うわけではない。
 5年勤めたためのそれなりの蓄えがある。ずっと遊んで暮らすことは出来ないけれど、節約すれば半年ぐらいは何とかなる程度の。
 時間の流れすら違うような田舎の熱気をはらんだ空気に、胸の奥が焦げ付くような気がして夏香は再び熱を帯びた吐息をついた。その長い長い吐息はまるでため息のようだった。
 生まれ育った場所に帰る時、人は何を抱えているのだろう。
 自分のように傷つき疲れはて癒しを求めて帰るものも多いに違いない。都会の喧騒はそれだけでぎすぎすとささくれ立った心をひずませる。
 空を見上げれば高く青い空。
 明るさを増したような太陽。
 元気になるために、再び都会で戦う力を充填するために帰って来た。
 懐かしい、田舎に。
 それは3年振りに。


 バス停で、一日に4本しかないバスから降りて農道に近い舗装されていない田舎道を歩いて行くと小さな森を抜け、暫くして集落に着く。
 その集落の中までバスは通らない。一番近いバス停も歩くと20分以上もかかってしまうのだ。
 それでも何の不便もなく人々は暮らしている。
 集落より少し外れた場所に森が切り開かれた土地があり、そこは避暑地として別荘がいくつか建てられていた。真新しいもの、それからとても古いもの。
 一番集落に近い場所に建てられている白い洋館は夏香の子供の頃からそこに建っていた。目にすると懐かしい気持ちになる。今は古びてしまったその建物は幼い夏香の憧れの象徴だった。
 ふと立ち止まって、今は使われていないかのような幽霊でも出そうな朽ちた外観をそれでも見つめてしまう。目を閉じれば白いレースのワンピースを着た少女が庭で子犬とじゃれていた当時の様が瞼に蘇る。人形のように愛らしい少女が夏の間だけ避暑に来ていたのだ。それは感心できないことに覗き見のビジョンだったのだけれど。
 多分、そう、あの時から……。
 夏香は唇を噛み締めた。
 現実のもっと生々しいビジョンが浮かび、慌てて目を開けると軽く頭を振って記憶を追い払った。
 その夏香の耳に、たどたどしいピアノの音が届いた。調律がされてないのか少し音律の狂った、子供が弾いているかのようなたどたどしい調べ。けれども生き生きとしてその旋律はとても楽しそうだった。スキップしたいような、色とりどりのビー玉を一面にぶちまけて転がすような楽しくて弾むような音。
 まだ大学生の時分にやはり夏に帰省した時にこの洋館の持ち主が変わったと寄り合いから帰って来た両親に聞かされた覚えがある。今の持ち主は誰なんだろう。そしてこのピアノを弾く子供はどんな子なんだろう。好奇心に駆られて、夏香はそっと通用門から庭に入り、たどたどしいけれども楽しげなピアノに導かれるように手入れのされてないひどく荒れた庭を進んだ。
 大きな白い格子枠の窓から中を覗き込むと淡い水色のドレスタイプのレオタードを着た女性が真っ白なグランドピアノの前に浅く腰掛けて楽しそうに鍵盤を叩いている。夏香の耳に聞こえるのはやはりたどたどしい、それでも楽しげな旋律。
 それから唐突にピアノの音が途切れて、女性は飛び立つように両腕を広げて踊りだした。我慢し切れなくて、ピアノを投げ出して踊りだす様は、弾いていたピアノの音そのままに弾むように楽しげな踊りだった。
 柔らかだけれどしなやかな身体が流れるように踊る様はとても美しく思えて、見惚れていた夏香が我に返ったのは大きな窓が真ん中から内側に開かれて、
 「どなた??」
 とレオタード姿の女性が小首を傾げながら訊ねてからだった。



NEXT >>