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忘れえぬ夏 (4)
その日、いつものように訪れた夏香がゆり子に盆踊りがあることを告げた。
「盆踊り?? テレビとかでよく見るけど、私行ったことないわ」
ゆり子のあまりの世間知らずぶりに夏香は少しびっくりしたが、
「じゃあ、行ってみる??」
自身も行くつもりだったのでゆり子を誘ってみた。
「え、いいの??」
「もちろん。入場制限あるわけじゃなし」
早めの夕食後に一緒に行く約束をする。
「ねえ、浴衣持ってる??」
ふと気がついて夏香が聞いた。
想像通りゆり子の返答はノーだった。
「嫌じゃなかったら私のを着ない?」
「え、やじゃない、やじゃない。――嬉しい」
少女のように柔らかにゆり子の顔が綻ぶ。
いつものように過ごしてティータイムの後、荷物を取りに夏香が一旦実家に戻った。
何枚かある浴衣の一番新しいものをゆり子に見繕う。昔ながらの紺地に白百合の花の古風な柄。きっと自分よりゆり子に良く似合う。
軽い夕食後、湯上りに浴衣をまとった。自分の浴衣を手早く着付けると夏香はゆり子に着かたを説明しながら着せつけた。赤と山吹色の鮮やかな帯をきりりと締めながらゆり子のほっそりとした少女のような腰に夏香は驚きを隠せなかった。
「やっぱり、清楚な百合の花が良く似合うわ」
しみじみと眺める夏香にほんのりとゆり子の顔が上気した。
そういう夏香はまるで生まれた時からずっと着物を着続けているかのようにとても自然に浴衣を着こなしていた。昔ながらの格子縞に小さな桜の花と花びらが散っている。真っ黒で艶やかな直毛の夏香にきりりとした上品な浴衣はとてもよく似合っていた。
「夏香の方がずっとずっと似合ってるわ」
ゆり子が色の薄い自分の巻き毛を指先でいじりながら少しだけ不満そうに呟くのに夏香は思わず破願した。
夏香が似合うのは当たり前だ。だってこれは夏香のために仕立てられた夏香の浴衣なのだから。
「――ゆり子は美人だから何でも良く似合うわよ」
夏香の口からは笑みを含んだ声と、ついつい本音がポロリとこぼれた。
折角シャワーをしたから化粧はしたくないというゆり子に夏香も賛同する。
「暗いから口紅と目元に色を落すだけでいいんじゃない?? 浴衣に洋風メイクは合わないし」
「――そうね、もう暗いから……」
それに恋人と一緒に行くわけではないのだ。だからそう、気負う必要も無い。そういうことなのだろう。
神社の境内に築かれた櫓の上では鉢巻をした若者が大太鼓を叩き、少女が朗々と唄っている。すぐ下の舞台では妙齢の女性があでやかな浴衣姿で盆踊りを舞っている。そしてその下の地面では笛や大太鼓・小太鼓が囃子をとり、楽団のように集まって演奏していた。
「迫力!!」
「田舎では盆踊りや秋祭りは一大イベントだったから」
ゆり子の素直な感嘆の声に夏香が頷く。
「でも、過疎が進んでこれもいつまで続けられるか判らないけど」
時折吹き抜ける風に色とりどりの提灯が幻想的に揺れる。囃子と歌声と喧騒とあでやかに舞う女性達。これがお祭り、日常ではない特別なものなのだと初めて体験するゆり子にも肌で感じるものがあった。
「ねえ、夏香は舞台に上らないの??」
何人かが夏香に声をかけて舞台に上っていくのを見てゆり子が無邪気に問う。
「小さい頃から踊っているし歌ってるから踊りも歌も覚えてるけど、私は舞台には上れないのよ」
「どうして??」
「――盆踊りってちょっと前までは無礼講の乱交パーティみたいなものだったって知ってる??」
「ええっ、そうなの?!」
「うん、だから明治時代には禁止されたりしたのよ」
夏香が視線をそっと伏せる。
「それが真実かは体験したわけじゃないから私には判らないし、うちの集落がそうしてたかも判らないけど、あの舞台には女性しか上がらないでしょう?? それには理由があるの。あの舞台には16歳を過ぎないと上れない決まりがあるの」
「16歳……?」
「そう、ようするに『私はもう16になりました。結婚できます。私はこんなに素晴らしいです。誰か私をお嫁さんにして下さい』って事なの」
「ええっ!!」
「今でこそ人が減って30歳以下の人妻も花を添えるために舞台に上がっているけど。私があの舞台に乗ったら、たちまち『男を捜しています。私と結婚してください』ってことになっちゃうのよ」
先ほど夏香に声をかけて舞台に登った友人達はもう皆とうに人妻だ。このあたりでは大体18歳から23歳の間に結婚して25歳ではいささかいき遅れと言われる。そして夏香は都会で生活しているとはいえもう27歳、いや、夏生まれだからもうすぐに28歳だ。いき遅れとかそういう段階ではすでにない。
「夏香は結婚とか考えてないの??」
「うん、今は。
――それに私はもうこの土地の人間じゃないもの。ここの男性と結婚する気もないし」
どこの男性ともきっと結婚はしないだろうという真実の言葉を飲み込んで夏香は静かに微笑んだ。
「結婚か……」
ゆり子は結婚や男性にまるで少女のように憧れている。そんなに深くゆり子を理解したわけではないけれどそれでも夏香は知っていた。そしてゆり子のような家柄の人間はとうに結婚しているのではないかと思い当たって夏香は夢見るような眼差しで舞台の上で舞う女性達を眺めているゆり子を静かに見つめた。
「――結婚も一度はしてみたいと思ってたけど、無理だったわ」
「無理って、まだ27でしょ。今は35だって40だって皆好きな時に結婚してるもの。まだまだ大丈夫よ」
舞台の上に注がれていたゆり子の眼差しがゆっくりと夏香に注がれて柔らかに笑みに細まる。
「そうね、まだ時間はあるもの。諦めちゃ駄目よね……」
結婚に憧れているけれど、多感な少女時代に両親が離婚してしまった経験を持つゆり子はどこか結婚に恐れを抱いているのかもしれない。あの白い洋館での想い出は両親が離婚する前の一番幸せな時のものだった。幸せで優しい時間。回顧しても時が戻るわけではないけれどそれでもその思い出を再確認したかったのだ。それが今のゆり子には必要な事だったから。
神社の境内に作られている櫓から離れて参道に並ぶ屋台を冷やかしながら歩く。
地方では少し有名な盆踊りなので観光客や、この日のために帰省した人間も多いのだろう。この静かな村にどこからこれだけの人がと思うほど神社は人で溢れていた。
二人ははぐれないように手を繋いで石畳の上をぽっくりと下駄の音をぽくぽく、カランカランと鳴らしてゆっくりと歩いた。下駄の余分が無かったので自分が履こうとぽっくりを持って来たら瞳を輝かせて履いて見たいとゆり子がねだったのだ。慣れない人間は足をくじくからとの夏香の忠告も耳に入らないほどで、
「これって舞妓さんとか履いてるわよね?」
と履いてクルリと浴衣姿でターンして見せたのだ。ぽくぽくなる足音が少し子供っぽいけれどバレエをしているだけあって踊るような足取りのゆり子にはとても似合う。
「いたっ」
かくりと足をひねって転びそうになったゆり子を咄嗟に夏香が支える。
「大丈夫? くじいてない?」
ゆり子が足首を回して、
「ん、ちょっと違和感あるかも」
少しだけ困ったような声を出した。
夏香は神社の奥の湧き水のある場所に行ってゆり子に足首を冷やさせた。
「ああ、冷たくて気持ち良い」
子供のように足をバシャバシャさせて、ゆり子がうっとりと目を閉じた。
あたりは真っ暗で空高く木々の間から降りそそぐあえかな月光と遠くの盆踊りの提灯が真の暗闇になるのをかろうじて留めている。あたりはひどく静かで盆踊りの喧騒がひどく遠く感じた。
闇にぼんやり浮かぶのは結い上げられたゆり子のほっそりとした白いうなじと、湧き水に浸している輝くような白い足。
目を射るようなその光景に耐え切れずに夏香が目を閉じると、ざざざっと森の中を一陣の風が吹き抜けた。