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 忘れえぬ夏

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忘れえぬ夏 (8)

 ゆり子は都会へと戻って行き、夏香はその後ひどく静かな夏を過ごした。
 もっと涼しくなるまで田舎で羽根を伸ばそうと思っていたけれど、たった一夏の出来事なのにそこかしこにゆり子との思い出が溢れていて失恋したての夏香の心をひどく苦しめた。だからまるで追われるように田舎を後にしたのは夏休みが終わる頃。
 夏前に別れた恋人と暮らした家に戻ってそのまま暮らす気にもなれずに上京中のすぐ下の妹のおんぼろアパートに潜り込んだ。大学生の妹はまだ夏休み中で毎日アルバイトに明け暮れていた。
「今年はお盆にどうして帰って来なかったの?」
 三年ぶりに帰省した夏香と違ってまだ若い6歳年の離れた妹は確か上京してからも毎年盆と正月、後はゴールデウィークに帰省してた筈だ。
「ん、ちょっと気がかりなことがあって……。お姉ちゃんこそ珍しいじゃない、お盆みたいな時期に戻るなんて」
 夏香が両親や親戚一同にやいのやいのと言われていることを知っている妹が質問に質問で切り返した。
「ふふふ。失恋しちゃったし、会社辞めちゃったし、ちょっと充電しようと思って……」
「それで充電は出来た??」
 好奇心に満ちた眼差しで覗き込んでくる妹をやんわりと押し返した夏香の口唇に苦笑が浮かぶ。
「それがさ、また、失恋しちゃった。一夏の恋だったのねぇ」
「そこが判んないよね。私と違ってお姉ちゃんってちょっと美人じゃない。モテモテでも不思議は無いのに、いつも失恋してるよね」
「仕方がないわよ、相手は皆結婚しちゃうんだもの」
「そこがおかしいよ。結婚するならお姉ちゃんとで良いじゃない。美人だしたいていのことはこなすし、スタイルだっていいし、頭も良いのに! 子孫に優秀な遺伝子を残すにしても絶好の相手だと思う。私だったらほっとかないのに!」
 力説する妹に夏香の苦笑が深まった。
 そう、相手が男性であれば、結婚というゴールが存在するだろう。
 妹は知らないけれど夏香の相手は皆女性なのだ。そしてその女性達は結婚というゴールに執着して夏香から去っていってしまう。それは仕方がないことだ。未来を不安に思うのは誰もが一緒なのだから。
「で、私と違ってって言ってたけど、何、失恋したの??」
 自分の話は切り上げて夏香は妹の言葉の気になる部分を拾った。夏香には似ていないまだ少女めいた妹の頬がほんのりと染まる。切なげに顰められた眉一筋ですべてを察した。
「――夏休みに入る時に告白したの……」
「そう、それで返事は?」
 ショート・ボブの髪を揺らして妹が否定を示す。
「だったらまだ判らないじゃない」
「でもそれから何の連絡もないし」
「照れくさいのかも。自分から連絡してみたら?」
 夏香だったらきっちり拒絶の言葉を告げられない限り振られたとは考えない。この年若い妹は世間ずれしていなくてなんだかとても微笑ましい気持ちになった。
「出来ない。振られちゃったら、私、生きていけない……」
「そうね、振られるのは悲しいわ。でもね、自分の心に誰か愛する相手が宿っているのってとても素敵なことじゃない?? 誰も愛さないより愛した方がいいし、振られたって愛する気持ちはなくならないのよ」
 ただ、そう、緩やかに穏やかに少しずつその気持ちは姿を変えていく。柔らかで優しくて少しだけ切ない思い出に。そして思い出を重ねて人は生きて行くのだ。その上に新しい恋の華が咲く。綺麗な綺麗なその華を咲かせて、咲き続けていられるように細心の注意を払って、それでも華はいつか散ってしまう。そこにあるのは別れ。しかしいつかはまたそこに必ず華が咲く。
 恋にだけ生きているわけじゃない。
 けれども恋しない人生なんてあまりにも味気ない。
「おねえちゃん!!」
 泣きついて来た妹をそっと優しく抱き締めて夏香は自分に言い聞かせた。
「私は何度失恋しても人を愛することを止めないわ」


 それからすぐに新しい引越し先を見つけて以前いたマンションを引き払い就職活動を始めた。
 9月の半ばから新学期が始まった妹は元気に大学に通っているらしい。それとなく夏香が失恋の件を聞くと保留になっているという不可思議な返答があった。それでも大事な妹が元気でいるならば口を挟むことではないだろう。
 冬になる前に再就職先が決まり新しい慌しい生活に夏香は忙殺されていった。
 新しい環境、新しい生活、すべてが新しいのは悪いことじゃない。むしろいろいろと忘れたい夏香にはとてもいい事だった。
 そして、3月の半ば、上京して春から大学生になる下の妹の冬生が夏香のマンションに転がり込んで来た。
「なんで、うちなの?? 大学に通うなら秋実のアパートの方が断然近いでしょ?」
「え、やだ、あんなおんぼろアパート。お姉ちゃんと一緒に住むからお父さん達東京に出るの許してくれたんだから、保護者として宜しくね」
 それに、と不思議そうに冬生が部屋を眺める。
「部屋も空いてるんだからあんなおんぼろアパート借りてないで秋ちゃんも一緒に住めばいいのに」
 すぐ下の妹の秋実が大学進学して上京した時、夏香は当時の恋人と同棲していた。だから両親に一緒に暮らして面倒を見るように言われていたのだけれど妹と相談して家賃の半分を夏香が出すからと別にどこかに下宿して貰う事にしたのだ。下宿は肩身が狭いから安アパートでいいと言って来たのは妹の方で安全面や防犯的にも不安だからと反対する夏香を妹の秋実が押し切ったのだ。そして気ままな一人暮らしはやめられないと結局未だにその古い木造アパートに暮らしている。
 途端に周りが賑やかになって夏香の生活が更に変わった。
 それも最初のうちだけだろう。
 大学生活に入ったらやれサークルだやれコンパだとだんだん家に寄り付かなくなるだろうから。夏香がかつてそうだったように。おおよその大学生がそうであるように。



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