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 忘れえぬ夏

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忘れえぬ夏 (3)

 「――もし、迷惑じゃなかったら伴奏して下さる??」
 柔らかな笑顔と甘い声音に誘われて夏香は知らず頷いていた。大学を卒業してからずっと弾いていなかったから指は思うようには動かなかったけれど、それでも何とか曲になってくれてホッとする。
 夏香の指が滑るように鍵盤を動くのを見てゆり子は瞳を輝かせた。
 「ピアノが上手なのって素敵!」
 それからまるで内緒話をするような声で、
 「小さな頃からずっと習っていて特訓までしたけれど、結局上達しなかったわ、私。才能無いの……」
 なだらかな曲線を描くほっそりとした肩を少女のように竦める。
 その何気ない仕草に不思議とときめきを覚えて夏香はゆるゆると首を振った。
 「――私はバレエに憧れてたわ。運動神経が良くなかったから習わなかったけど。自分の身体を自分の思い通りに動かせるのって、とても羨ましい」
 「じゃあ、良かったら一緒に練習しましょう!」
 夏香が伴奏をする代わりにゆり子が夏香にバレエを教えてくれると言うのだ。今更この歳でと夏香は思わなくはなかったけれど、もう少しだけゆり子の笑顔を近くで見てたいような、ゆり子の踊りを見ていたいような気持ちが強く、言われるままに頷いていた。 
 そして翌日の午後から夏香は洋館を訪れるようになり、ゆり子のレッスンに付き合い、一緒にレッスンをして、ティータイムを一緒に過ごしてから帰るのが日課となった。
 家にいればやれそろそろ結婚はとか、恋人は出来たのかとか、親戚の誰が何人目の子供を生んだとか、気が重くなるような話題ばかりを両親や親戚から聞かされるため次第に夏香はゆり子の居る洋館に入り浸るようになっていった。
 昼食を一緒にと誘われたのは三日目、夕食を誘われたのは一週間後。この広い洋館にたった一人で住んでただ一人で食事を取っていると聞けばゆり子の誘いをむげに断る気になれなかったのだ。それに――。それ以上に夏香はゆり子に興味があった。子供心に憧れた洋館とそこに住む少女――今はもうとうに少女ではなくなっているけれど――への淡い憧れ。懐かしさとどこから生まれてくるのか知れない慕わしさにまるで蜜に惹きつけられる蜜蜂のように心が吸い寄せられていく。かたや踊り、かたや伴奏をする。そしてともに踊る。涼しい木陰で太い幹にもたれて読書をしたり、そのままうとうとと昼寝をしたり、まるで少女時代の夏休みのように二人は不思議と親密な日々を過ごしていた。


 夕食後、食後のお茶を飲みながら他愛もない話をしていると、真っ暗な空に目を射るような稲光が走り轟音と共に大粒の雨が叩きつけるかのような激しさで振り出した。
 そろそろ帰る時間だと立ち上がろうとしていた夏香は思わず戸惑いの眼差しでゆり子を見た。
 まるで夏香の心を見透かすようにゆり子は柔らかな笑みを浮かべた。
 「今日は泊まって行って。雨がひどいし雷の中帰るのは危険だもの」
 ゆり子の言葉はもっともで夏香は実家に電話を入れると言葉に甘えて泊めてもらう事にした。食後のお茶がいつしかお酒に変わった。食事の時いつもお酒を勧められるのだが事のほかお酒に弱いということで常に断っていたのだ。けれども今日はそのまま泊まって行くのだからもし酔いつぶれても問題ないだろうと勧められて、断りきれなかったのだ。
 夏香はお酒に弱い、それは真実だ。でも、それだけじゃなくて、酔ってしまえば自分が何を口走ってしまうのか判らないから極力避けていたのだ。
 急激に仲が良くなったとは言ってもお互いのすべてを知っているわけではない。おそらく夏香の性癖を知ればゆり子は忌避するようになるだろう。たいていの人間がそうであるように。それに、前の恋人とは別れて来たばかりで、まだその痛手から立ち直ってはいない。酔えば自分が何を口走ってしまうか責任が持てない。
 ささやかな酒盛りを終えて、用意された客間のベッドにもぐり込むとやっと夏香の身体から緊張が消えた。酔ってふわふわとしてとても心地良い。目を閉じるとたちまち眠りに引き込まれていく。
 けれども小さなノックに夏香の眠りは邪魔をされた。許可を得る前に音もなく入って来たのはゆり子だった。枕を抱えてパジャマ姿だった。
 ゆり子は雷が苦手で一人では眠れないと言って小さな子供のようにベッドの中に潜り込んできた。
 「まるで修学旅行みたい」
 と夏香が呟くと、
 「私、一度も行った事ないの。修学旅行ってこんな風にわくわくするものなのね」
 ゆり子が少しだけ興奮した様子で柔らかに笑った。
 二人は他愛もない話をしてひとしきり笑い合うと、ゆり子は緩やかな眠りに落ちていった。先ほど心地良い眠りに落ちていこうとしていた夏香はどうしても眠る事が出来なかった。その理由は判っている。吐息がかかるほど近くにゆり子が存在するから。
 ゆり子が深く眠ったのを確認すると、稲光が怖いのか先ほどすがるように夏香の手を握ってきたゆり子の手に顔を寄せて夏香はそっとゆり子の指先に唇を寄せた。
 稲光が煌々と穏やかな顔で眠るゆり子とそれを見つめる夏香を照らす。館には二人きり。
 窓の外はまるで今の夏香の心の中のように荒れ狂っていた。



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