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 忘れえぬ夏

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忘れえぬ夏 (5)

 幼馴染みから借りて来たツーシーターの真っ赤なオープン・カーに荷物を積み込んでいると玄関から出てきた一番下の妹がもの言いたげな顔で声をかけて来た。
「お姉ちゃん。せっかく帰ってきているのに、ちっとも家にいてくれないのね」
 拗ねたように唇を尖らせてつまらなそうに言うそのさまは高校三年生とは思えないほど子供っぽい。
 藤堂家の姉妹は皆仲が良いのだがことに夏香とこの末の妹冬生ふゆきは年が10歳離れているにもかかわらずとても仲睦まじかった。
 その姉が折角帰省しているのに、ちっとも遊んでくれないのだ。いろいろ相談したい事もあるというのに。
「ごめん、急ぐから。帰ってからじゃ駄目??」
 夏香の言葉に冬生はただ首を振った。姉が家に居辛いのはもとより承知なのだ。それでも高校を卒業して来年は上京して大学へ通うつもりの冬生は大好きな姉に相談したい事が山ほどあった。その姉は毎日朝から晩まで出かけっぱなしで帰省してから何週間も経つのにいっこうに落ち着いて話を聞いてもらえてなかった。冬生の不満の声は当然の事とも言えた。
「じゃ、明日用事が無いなら冬生ともドライヴしよう。受験って言っても息抜きは必要だものね」
 そう言って笑顔で出かけていく姉に、冬生はもう何も言えず、走り行く真っ赤なスポーツカーをただただ見送った。


 真夏とはいえ山の上はとても気持ちよく涼しかった。
 夏香とゆり子は有名な夜景の見えるデートスポットの近くにある眺望の素晴らしい露天風呂に浸かってから早めの夕食を食べ、見晴らしの良い展望台へと車を止めた。
「温泉も気持ち良かったし、さっきのステーキも口の中でとろけてとっても美味しかった」
 まるでデートみたい、と無邪気に笑うゆり子に、夏香はカッと身体が熱くなった。海に落ちゆく夕日が二人を茜色に染め上げていて、赤らんだ夏香の顔にゆり子が気づくことは無かったけれど。
 夕日はゆっくりと海に沈み、空が紫から藍の色に変わっていく。
 やがて見上げる高い夜空には満天の星が、そして眼下には宝石箱をひっくり返したようなきらびやかな夜景が。そこへ彩りの美しい華が次々と開花する。
「綺麗ね」
 次々に打ち上げられる花火に夢の中にいるかのようにうっとりとゆり子が呟く。
 世界はこんなにも美しいものに溢れている。こんなにも美しくて切ない。
 それらをありのままに美しいと感じとる事ができるのはとても幸せな事なのだ。
 長い間、ただ日々を無為に過ごして来たけれども、何も見ず何も聞かず何も感じずに慌しい日常に忙殺され、ただただ生きていた。たくさんの美しいものをありのままの美しい姿で目にとめることなく。
「――そういうのは、あると思う」
 美しいものを美しいと感じるには心に受け止める素地が無ければ無理だから。
 夏香は華々しい夜空ではなく、闇夜にぼんやりと白く浮かぶゆり子の横顔を眺めながら独り言ちるように呟いた。
 大学を卒業してからこの5年、美しいもののうわべだけを見てきたように思う。ただ日々をこなし、がむしゃらに明日に向かって歩き続けていた。
「だから、少しだけ人生をゆっくり歩いてみようと思ったの」
 だから美しいものを見て、大好きなものに囲まれてもう暫くは休憩。もちろん、それだけではなくて、ゆり子と一緒に美しいものを見たかったのだけれども。それはけっして口にはしないで。
「――もうすぐ、夏が終わってしまうわね」
 花火が終わり、人気が消えてしんと静まり返った展望台でぼんやりと夜景を眺めていると隣に立つゆり子がポツリと洩らした。
 ハッとして振り返る夏香の目に滲むように儚い笑みを浮かべたゆり子が凛とした美しい姿勢で立ってた。バレエをしているせいかゆり子の一挙動、すべての所作が目を惹くほどに美しい。それは夏香に対してだけの吸引力なのか、すべての人間が感じるものなのか夏香には判断できなかった。
「ゆり子は、いつ、帰るの??」
 夏の間だけ、あの懐かしい別荘を借りているゆり子は夏が終われば帰ってしまうのだろう。
「そうね。いつって決めてないけど。夏香はどうするの?」
「私? 私は秋になって少し涼しくなってから」
「ずいぶん長いお休みね」
 頷きで答えると、夏香は足元の小石を軽く蹴った。
「会社、辞めて来たから。秋になったら戻って就職活動。一からやり直し」
「そう。――ゆっくりしてて大丈夫なの?」
「大丈夫。全部捨ててきたの。会社も辞めて恋人とも別れて。戻ったらまずは引越しして、それから就職活動かな」
 逆にすべてから解き放たれて、今はとても身軽なのだと伸びをしながらきっぱりと言う夏香に、再びゆり子の口元に笑みが広がった。
「なんか私がこう言うのは変かも知れないけど、とっても夏香らしいわね」
 夏香はさっぱりしていて行動がきびきびしていて明るくてそしてとても優しい。夏香と言う名前がぴったりだと思えるほどに。
「ありがとう。褒め言葉としてもらっておくわ」
 ゆり子こそ、凛と咲く白百合のような人だと言いたかったけれどそれでは告白みたいだからとぐっと堪えて、夏香は礼を述べた。
 あまり長く夜風にあたるのはゆり子の身体に良くないと、そこそこで二人は引き上げてきた。
 ゆり子を家まで送ると、
「もう遅いから泊まっていったら?」
 夏香の気持ちも知らずに不用意に誘うゆり子の誘いを翌日妹と出かける約束をしているからと丁重に断って家路についた。
「冬生と約束してて良かったのかも……」
 でなければ断りきれたかどうか。
 ゆり子に向かう気持ちが高じすぎていて、同じ屋根の下では眠ることが不可能のように感じていた。その広い屋敷にゆり子と自分しかいない。そんな状態で果たして理性を保っていられるのか、夏香はまったく自信が無かった。



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