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 忘れえぬ夏

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忘れえぬ夏 (6)

 お茶の時間にゆり子がまるで明日の天気を話すみたいにさらりと言った。
「急だけど、用事が入っちゃったから明日帰る事になったの」
「えっ?」
「だから良かったら今夜はうちで晩御飯を食べて行かない?? 夏香に仲良くしてもらって素敵な夏休みを過ごせたから、是非ご馳走させて。――料理はそんなに得意じゃないけど……」
 咄嗟に言われている事が理解できなくて夏香は呆然とふわふわと揺れるゆり子の色素の薄い長い髪がきらきらと陽光に透けて光るのを目で追っていた。
「どうしたの、夏香?」
 心配そうな白い顔が間近で夏香を覗き込む。
 たちまち心拍数が上がって、夏香は思わず立ち上がって大きく身を仰け反らせた。無邪気なゆり子の一挙動にも惑わされる自分が恥ずかしい。相手は友達としてこんなに信頼を寄せてくれているのに自分の中に湧き上がるのは欲の混じった愛情なのだ。
 けれどもそう、それは仕方が無い。友達になる前に、一目会ったその時に、夏香は恋に落ちてしまったのだから。
「あ、うん、なんでもない。急だから、びっくりした」
「本当に急よね。私ももう少しゆっくりしているつもりだったから……」
 でも、仕方が無い事なのだと、ゆり子の顔に仄かに寂寥が浮かんだ。
「それに、ずっとここでこうして暮らしていけるわけじゃないから、踏ん切りがついて良かったのかも。居心地が良くて、とても離れ難かったし……」
 子供の頃の幸せな思い出と、気ままな毎日と、気の合う友達と遊び暮らす日々。そんな至福とも言える日々がそうそう長く続くわけが無いのだ。人生はいつもそんなものだった。
「じゃ、晩御飯は一緒に作ろうか。何か足りないものとかあったら買ってくるけど」
 ゆり子の肩を元気づけるように軽くぽんと叩くと夏香はゆり子に微笑みかけた。
 そう、すべては判っていた事だ。出逢ったその日から近い未来に確実に別れが待っているのだと。それはとうに覚悟を決めていた事だった。
 夏香の家の軽トラックで一緒に買い物に出る。翌日には引き払うからその夜食べきれるだけの量を考えて買い物をした。


 夕食後、夜通し飲み明かそうと誘われて、夏香は逡巡した。それは一分一秒でもゆり子と一緒にいたい夏香には願ってもいない申し出だけれど、あまりお酒に強くない彼女には自分の心を吐露してしまうのではないかと言う危惧があった。けれども明日にはもう会うことも出来なくなてしまうと言う恐ろしい事実が、夏香の胸の痛みが、その申し出を躊躇い無く受けさせた。
「小さな頃ね、病弱であまりお友達がいなかったから、家の前を通る同い年だって聞く夏香を見て“どんな子かな”とか“友達になりたいなぁ”って思ってたの。それがこんなに大人になって叶うなんて不思議ね」
 目の淵をほんのりと赤く染めて、ほろ酔い加減のゆり子がいつになく饒舌に言葉を紡いだ。
「それを言うなら私だって。憧れの白亜の別荘に住む天使みたいな女の子と友達になれたらなぁって思ってたわ」
 その当時は住む世界が違いすぎた。今だって同じ世界に住んでいるとは言い難いけれど。
「夏香は想像してたよりもずっと素敵で、知り合えて良かった、本当に……」
 ゆり子は酔っていなければ言えない様な気恥ずかしい事をさらりと言って立ち上がり、杯を手にしたままテラスに出た。
 田舎らしく外は満天の星。月は丸く、煌々と辺りを照らしていた。昼間の焼け付くような暑さは鳴りを潜めて吹く風が秋をはらんでどこか穏やかで涼しい。夏香もつられるように立ち上がってテラスへ出た。
 月明かりの下のゆり子はとても儚げで現実感を失って、まるで夢の中にいるかのように感じる。
「お月様がとても綺麗ね」
「そうね」
 月を讃えて杯を空けるゆり子を眺めながら相槌を打つ。そう、月などこの先いくらでも見ることが出来る。けれど今この時のゆり子を見る事が出来るのは今しかないのだ。吸い寄せられたようにゆり子から目を離すことが出来なくてもいたし方がない。夏香は病にかかっている。とても重症な、恋の病に。
「向こうへ帰っても、友達でいてくれる??」
 無邪気に振り返るゆり子に、慌てて視線を外して頷く。このひと夏の関係はそれではまだ続くのだろうか。二人の関係に未来があるというのだろうか。
 けれども、にわかにゆり子の表情が暗くなった。
「それとも、私達、もう会うべきじゃないのかしら……」
 その独り言のような呟きは痛いほどに夏香を打った。
「どうして?」
 夏香の問いかけにゆり子は曖昧な微笑を口元に浮かべてただゆるゆると首を振った。
 まさか、ただの友達でいることさえも否定されるとは思っても見なかった。都合の良い話だけれど、友達付き合いとまではいかなくてもごくごくたまに会う事が出来る知人程度にはなっていると信じていた。
 だって、友達じゃないのならどうして自分はこうして最後の夜を一緒に過ごしてあまつさえ泊まっているのだろう。知人ですらないのなら社交辞令を真に受けて泊まりこんでいる自分はなんて滑稽なのだろう。
 ぶるりと、武者震いのように身を震わせた夏香にハッとしてゆり子はその腕を掴んだ。
「ち、違うの。夏香は私にとって大事な大事な友達よ。それはずっと変わらないと思うわ。でも、夏香の優しさに甘えて頼りすぎちゃう自分が怖いの。私はもっともっとしっかりして自分でしっかりと生きて行かなきゃならないから……」
 どこか寂しそうに笑うゆり子に夏香は小さく喉を鳴らした。こみ上げてくるのは堪えきれないゆり子への愛情。そんな寂しげなゆり子を見ていたら我慢が効かなくなってしまう。
「ゆり子……」
 夏香は自分の腕を掴むゆり子の手を引き剥がすとその手を両手でそっと包むように握りしめた。
「――好きよ」
「えっ??」
「私はゆり子が好き。だからいくらでも頼って欲しい」
「夏香……?」
 夏香の告白にピンと来ないらしいゆり子に夏香はたたみかけるように告げた。
「私はゆり子を愛しているの。一目惚れなのよ」



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