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 忘れえぬ夏

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忘れえぬ夏 (7)

 一目惚れなんてドラマや小説の中の別世界の出来事だと思っていた。
 まさか現実に自分が誰かに一目惚れする日が来るとは思っても見なかった。けれどもこれは現実の、自分の、気持ちなのだ。
「――ずっとあなたが好きだった」
 ゆり子がもう会えないと言うなら、この恋に決着をつけよう。
 こみ上げて来る愛おしさをもう堪えきれない。
 そう、それは自己満足でしかないけれど。
 告白することでゆり子に重いものを背負わせ苦しませると判っていたのに。それでも夏香の恋心は悲鳴をあげて言葉少ない夏香の口唇から思いを迸らせた。
「――ごめんなさい……」
 びっくりした表情のゆり子の顔が、まるでスローモーションを見ているかのように緩やかに苦味を刻んだ。夏香の言葉がゆり子の脳に届き、言葉の真の意味を理解した瞬間だった。
 それからくしゃりとその顔が痛みに歪む。
「ごめんなさい」
 泣きそうな顔と震える声で、なのにゆり子は更に一歩夏香に近づいてゆるゆると首を振りながらそっと両手で夏香の手を包むように握った。
 カッと全身の血が逆流して激しい鼓動が嵐のように夏香を襲う。期待と喜びに夏香の心が大きく膨らんだ。
「夏香が大好き」
 その声の甘さに、響きに、言葉の意味に、気が遠くなる。
「ゆり子……」
「でも、私は夏香の気持ちには応えられないの……」
 甘やかな声音で残酷な真実が躊躇いなく告げられた。
「――ごめんなさい」
 苦しげなゆり子の声にどん底まで突き落とされた夏香ははっと我に返った。
 そうだ、こんな結果になるだろうことなど判っていたではないか。ゆり子はノーマルでそしてどこか大人になり切れていない夢見がちな世間ずれしてないお嬢様なのだ。
 堪えきれずにこの気持ちを告げてしまったのは自分のエゴなのだから。気持ち悪がられても仕方がないのだ。
 夏香が謝罪すると、ゆり子は否定するように首を振った。
「気持ち悪いだなんて思わないわ。だって私、夏香が大好きだもの。ただ――夏香と同じ気持ちじゃなくて、同じ温度じゃない“好き”だから」
 だから夏香の気持ちに応えることはできない。その偏見のない素直な真摯な言葉と態度に夏香は痛んで疼く胸に小さく温かなものが灯ったのを感じた。苦しくて切ないけれどゆり子と一緒にいるといつも生まれるその温かな胸の灯火。
「ええ、わかってる……」
 昨日よりも今日、今日よりも明日。一瞬一瞬更に好きになる、思いは深くなっていく。こんな愛があるなんて知らなかった。まるで初恋のように夢中で周りが見えなくなってしまう。
 夏香はそっと両手を握るゆり子の手を自分の手と共に持ち上げると頬を摺り寄せた。その最上級に愛おしいものを愛おしむような姿に、月明かりに照らされたゆり子の頬がほんのりと染まった。
「――キスして、いい??」
 眩しげに細められた柔らかな眼差しで夏香に小さく許可を求められて、ゆり子は何も考えすに咄嗟に頷いた。細められた目がうっとりと閉じられて頬を寄せていた手の甲にそっと夏香が口唇を寄せた。
 ゆり子の血流がまるで逆流しているかのように騒がしくなり急に全身の体温が上がった。どうしてかキスは口にされるのだとばかり思っていたのだ。そのびっくりするような自分の勘違いに全身が羞恥に染まった。
「――ゆり子?」
 急にびくりと大きく震えたゆり子に、目を開けた夏香が不思議そうな顔で気遣うような声をかけた。最後だからとはいえヘテロ相手にキスはやりすぎだっただろうか? でも、ゆり子も同意してくれたことで、無理強いしたわけではない。
「ごめん、気持ち悪かった??」
 夏香の謝罪にゆり子は頭が千切れるのではないかと思うくらい激しく首を振った。
「そんな、気持ち悪いなんて!! そんなことない! ただ、その、びっくりして……」
 だんだん勢いを失って口ごもるゆり子に、夏香は穏やかに微笑した。
「ありがとう、私の気持ちを受け止めてくれて。本当にありがとう」
「夏香……」
 つられたようにゆり子は柔らかに微笑んだ。
「そんな……。私の方こそ有難う。辛い時にずっと一緒にいてくれて。とても楽しかった。
 有難う。――私を好きだと言ってくれて……」
 両手で包むように握っていた夏香の手を解放すると、その掌にそっと羽根のようにやわらかなキスを一つ、ゆり子が落とした。



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