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忘れえぬ夏 (9)
次の夏、夏香が妹達と一緒に帰省するとあの古い洋館は取り壊されていた。
村の噂ではゆり子は病気で亡くなったらしい。
死ぬ前に小さい頃に夏毎に訪れたこの洋館に来ていたのだという。持ち主がとうに変わって取り壊されることが決まっていたその洋館に。
古い洋館はまるで自分のようだと、あちこちがポンコツで今にも崩れそうだと。庭から見上げてゆり子がこぼした言葉が昨日の事のように鮮明に蘇る。
その物悲しいような切ないわびしいゆり子の様子に当時の夏香は何度抱き締めて慰めたい衝動にかられた事か。
そのゆり子がもういない。
世界のどこにもゆり子はいない。
もし、ゆり子が許してくれるならば彼女の最後の瞬間まで共に笑って共に過ごしたかった。たとえそれがゆり子の迷惑になろうとも。
声もなくむせび泣く夏香の肩が温かな手で叩かれた。
「――冬生??」
泣き濡れた顔で振り返る夏香を痛ましげな眼差しで下の妹の冬生が見つめていた。
「どうしようか、迷ったけど、これ、お姉ちゃんに渡すわ」
差し出されたのは開封済みの一枚の封書だった。宛名は妹の冬生宛。消印は冬で、丁度冬生の誕生日の頃だった。
「あなた達、知り合いだったの??」
冬生はゆっくりと首を振った。それを目の端に止めながら夏香は自分の手ではないようにひどく震える手で中の手紙を取り出した。泣き腫らした目で文字を追う。
「う、そ……」
押し殺したような声に温かな感触が背中から夏香を抱き締めた。
「ごめんね、お姉ちゃん。私、怖かった。本当はすぐに見せれば良かったのに、どうしても勇気が出なかった。お姉ちゃんが私の本当の気持ちを知って私を嫌いになったらと思うと……」
あの、最後の日、前夜帰らなかった姉の夏香を心配して早朝に古びた洋館を尋ねた冬生は丁度出て行こうと荷物を纏めて洋館から出て来たゆり子に出くわしたのだ。
話の流れで自分が姉の夏香にずっとずっと憧れて、そして愛しているのだとゆり子に告げてしまった。
そしてその冬、来た手紙にはゆり子が小さな頃から長い間ずっとどれだけ夏香を愛でて焦がれて愛してきたのか、その夏出会ってどれほど惹かれ、切ない気持ちを抱いたかが連綿と綴られていた。
夏香は病弱なゆり子にはないすべてを持っていたから。
それを“恋”と呼んでいいのか恋愛経験の無いゆり子には判らなかった。けれども未来のない自分に夏香を縛り付けてはいけないと自分の心を押し殺し、夏香の言葉を受け入れようとしなかった。
まるで厳かな誓いのように夏香の掌に口唇を落とした、最後の夜のゆり子が蘇る。
「残されたって、構わない! 最後の瞬間まで傍にいたかった……」
嗚咽を堪えて声を搾り出す夏香の背中に濡れた温かな感触がじんわりと広がった。
「冬生……?!」
「まだ、遅くはないわ。ゆり子さん、元気よ。そこのサナトリウムで療養しているけど、今はだいぶいいみたい」
その手紙をもらってから冬生は定期的にゆり子の様子をサナトリウムに問い合わせていた。生まれた時に二十歳までは生きられないと宣告を受けたゆり子は、元気とは言いがたいけれど小康状態を保っている。少なくとも明日をも知れない危うい状態ではないらしい。
「冬生、有難う!!」
夏香は背中から抱きつく妹の手の上に自分の手を重ねて、強く握りしめた。
「お礼言われるようなことしてないわ」
「でも、有難う」
「あーあ、お姉ちゃんは結局永遠に私のものにはならなかった」
「けど、嫌だって言っても私は永遠に冬生の姉はやめないわよ……」
それが恋なのかはわからない。ずっと憧れて好きだった姉。半身がもぎ取られるように痛いけれど、でも自分のものにして不幸になるよりも誰かと一緒に幸せになって欲しい。それくらいには愛している。
ゆり子に会いに行こう。
その手紙を持って。
そして今度こそ二度と手を放さない。
なんと言われようとも。
夏香は決意した。一年たった今でもゆり子への気持ちは薄れるどころか更に深くなっていると感じたから。
それに確かな未来など誰も持っていない。
だからゆり子が80まで生きないとは限らない。
そして、夏香との間だったら子供は産めなくても問題ない。
死が二人を別つとも……とまでは今は言えないけれど、いつかそうなれたら良い。
それほどまでにゆり子を愛したい。
知らず微笑を浮かべた夏香の耳に、子供の手のようにたどたどしいゆり子のマ・メール・ロワが聞こえて来たような気がした。