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 忘れえぬ夏

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忘れえぬ夏 (2)

 夏香を覗き込んでくる大きな瞳が空を映したように強く輝いていた。真っ白い肌と色素の薄い髪と瞳、ほっそりとした姿態。目の高さにある豊かな胸にドキドキしてしまう。レオタードの薄い生地はその形をそのままに浮き上がらせていたのだ。
 「どなた?」
 とかけられた声は少し低めで、けれども酷く甘い。一見少女のような容貌だったが、肌の張りや艶、細かい皺でそれほど相手が若くない事を一瞬で夏香は見て取った。
 そう、きっと夏香と同い年ぐらいだろう。
 「ご、ごめんなさい」
 夏香は咄嗟に謝った。
 「持ち主が変わってから誰も住んでる様子が無かったし、どこかの子供が忍び込んで悪戯してるんじゃないかと思って……」
 本当はただの好奇心だったのだが咄嗟に嘘が口をついて出た。見つかるとは思っていなかったから自分の耳にすら何と言うかとってつけたかのような理由に聞こえた。なのに窓から身を乗り出した女性はすっかり信じたようににっこりした。
 「小さい頃から習っているのにちっとも上達しないの、ピアノ」
 確かに子供が弾いているのではないかと夏香が勘違いしたくらいだから上手ではない。でも、夏香は技術だけが素晴らしくてもそれだけでは芸術にはならない事を知っていた。
 「さっきの曲……」
 「え?」
 夏香の言葉に耳を傾けるようにして更に身を乗り出すと一つに束ねられたゆるく巻いた髪が胸元にこぼれてふわりと優しい香りがした。
 どきん、と夏香の心臓が急に大きく脈打つ。
 「さっきの曲、すごく可愛らしかったから。
 下手とか上手とかじゃなくて、可愛い曲だったから、子供が弾いているのかと思ったのよ……」
 あんなふうに弾むように楽しく弾けるのは純粋な子供だけだと思っていたから。
 「ああ、あれはマ・メール・ロワよ」
 「マ・メール・ロワ?」
 「そう、ラヴェルの」
 「ラヴェル? ボレロとかの?」
 「あ、そうなのかな? 私ピアノはあまり詳しくないから。でもマ・メール・ロワはマザーグースを題材に子供のために作られたらしいわ。だから可愛らしいのかな」
 私は好きよ、弾くのも踊るのも。
 そう言ってその場で綺麗にターンしてみせる。薄い布地のスカートがふわりと舞うのを夏香はただ吸い寄せられたように眺めていた。
 「バレエの曲ってチャイコフスキーとかそういうのだと思ってたわ」
 くるりとターンした後に柔らかに微笑む女性から夏香は視線を引き剥がそうとして、しかし叶わなかった。
 「チャイコフスキーのくるみ割り人形は有名ですものね。でもマ・メール・ロワはバレエ用に編曲されたものがあるのよ」
 その無邪気な表情にかつて目にした少女の像が重なる。
 でも、そう、そんな訳がない。持ち主が変わったと確かに聞いたのだから。
 「あなた、ピアノ弾けるのよね??」
 「え?」
 「小さい頃、町へ習いに行ってたでしょう?」
 夏香の胸は呼吸を忘れたかのようにしんとした。
 「今は借りてるのだけど、私、昔、小さな頃、この別荘によく来たわ。週に一回その通りを通ってお友達と一緒に習いに行ってたでしょう?」
 そう、水色のレオタードを纏った女性の言葉は正しくて、夏香は大学に入るまでずっと週に一回この洋館の前の道を通ってバスに乗って町のピアノ教室に通っていた。
 それをこの少女が知っていたなんて。いや、それよりも。この女性があの時の少女だなんて。
 「私は和泉ゆり子っていうの。ええと――」
 和泉ゆり子と名乗った女性は白魚のような人差し指で自分の唇を叩くようにして少し考えると、
 「そうそう、夏香さん。確か藤堂夏香さんだったかな?」
 夏香の目が驚愕に見開く。この女性が和泉ゆり子と言う名前だという事は当時から知っていた。しかゆり子が自分を知ってるとは思わなかった。
 「昔この別荘に出入りしてた村の方に聞いことがあるの。確か同い年で、ピアノをしてるって……」
 お互いにお互いの情報があってなお二人は友達になれなかった。――当時。
 「私、夏中ここを借りているの。もし良かったら遊びに来て。お友達がいなくて少し寂しいなぁって思ってたところなの」



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