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 母の肖像

【 大好きな気持ちはいつも変わらない 】
 大好きな気持ちはいつも変わらない
 【 大切な気持ちはいつも変わらない 】
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【 愛している気持ちはいつも変わらない 】
  前編    後編
【 湖のほとりで君の夢を見る  】
  湖のほとりで君の夢を見る
 【 母の肖像 】
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母の肖像 1


 私の父親の記憶はもの心ついた頃からあまり無い。
 それは両親が別居したのが3歳でその後何度か父と二人で逢ったものの、父が見も知らぬ女性と駆け落ちして正式に離婚という運びになったのが私が5歳になったばかりの時だったから。
 ただ、大きな温かな手が遠慮がちに私の頭を優しく撫でてくれた感触だけが私の父親の記憶として今もずっと残っている。
 父は不器用な人だったらしい。不器用ながらも私が愛されていた事は間違いがないと、今でも私はそう思っている。そう信じている――。


 もの心ついた頃から私の形容詞は『可哀想な』だった。可哀想な子、可哀想な娘、可哀想な初音。そんな風に私は『可哀想な』という言葉に育てられてきた。
 けれど私自身は自分を皆が言うように可哀想だと思ったことは一度も無い。
 父親がいないことを実感するのは父親参観の時ぐらいで、母さえいれば特に困った事はなかった。住んでいる場所が田舎だったから両親のどちらかが欠けている仲間は少なかったけれど、まったくいないわけではなかったし、私に対する同情が浸透していていじめの対象になることもなかった。
 父は母にこそ暴力をふるったらしいけれど、私に手を上げることは無かったように思う。何故なら私には父に対する恐怖の気持ちが微塵もないから。ご近所や親戚の話では父は気が弱く優しい人だったけれど飲むと人が変わったようになりよく母に暴力をふるっていたと言う。
 どうして優しい父が母にだけ暴力をふるったのか、私にはずっと判らなかった。
 けれど、そう、あれは、私が11歳になったばかりの頃、すべての謎が一度に解けたのだ。


 母には他に愛する人がいた。
 父ではない、別の人を、母はずっと愛していたのだ。
 母の胸の中にはずっと他の誰かがいた。
 それに気づいた父の気持ちはどんなだっただろう。
 それでも父はまだ幸せだったと思う。だって更にその奥の真実を知らなかっただろうから。
 何故なら――。
 そう、何故なら、母の愛する人は……、男性ではなかったのだ。
 私だってびっくりした。
 だって、ただの普通のおばさんだったから。
 母がずっと愛し続けているというその人が。


 母が心の中で自分を裏切っている事に気付いた父は酒に溺れ、どうしようもない虚しい気持ちを暴力に変えて、そしてそれでもどうにも出来ずに他の女性に縋り、私達母子を捨てた。
 可哀想な父。そして他の人を愛しながら父と結婚しなければならなかった可哀想な母。
 母はいつも「私が悪いの」と言って、けっして父をなじる言葉を吐くことはなく、責めるような態度を見せる事も一切なかった。
 そして、いつも母はとても穏やかでけれどもどこか儚く、なのに信じられないほど幸せそうだった。


「ここにいつも大好きな人が棲んでいるから」


 どうしていつも幸せそうなのかと尋ねた私に、母はいつも自分の胸に手を当ててそう答えていた。
 私はずっとその大好きな人というのは私や父や母の両親や血縁者達の事だと思っていたのだけれど、それはまったくハズレと言うわけではなかったのだけれど。でも、母の胸の中を大幅に占めていたのは別の一人の女性だったのだ。



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