【 大好きな気持ちはいつも変わらない 】
■大好きな気持ちはいつも変わらない
【 大切な気持ちはいつも変わらない 】
■前編 ■中編 ■後編
【 愛している気持ちはいつも変わらない 】
■ 前編 ■ 後編
【 湖のほとりで君の夢を見る 】
■ 湖のほとりで君の夢を見る
【 母の肖像 】
■1 ■2 ■3
大切な気持ちはいつも変わらない 前編
ローカル線の駅のプラットホームに降り立つと嵐のような蝉の大合唱が私を迎えた。
都心から約3時間。都心に較べてだいぶ涼しいけれど、真夏で冷房のキンキンに効いた車内からホームに出るとすっかり忘れていた汗が滝のように噴出してきた。それでも吸い込む空気すら味が違うような気がして座りっぱなしだった強張った身体をほぐすように大きく伸びをしながら深呼吸を繰り返した。
なんだか、ここ2、3日がまるで夢の中の出来事のようだ。
そして今もまだ夢を見続けているような現実感のなさ。
目の前には緑の景色が広がり、陽炎に揺れるその景色に尚更現実感が希薄になる。
それでも照りつける容赦ない真夏の太陽は疑いも無いほど強烈な現実で逃れるように足早に駅舎へ駆け込んだ。もう日に焼けていいほど若くはないし太陽を浴びると身体がひどく疲弊するのだ。
回収箱に切符を入れて無人の改札を抜けるとターミナルとはいえないような駅前のコンクリートで固められた空き地に白いワンボックスカーが止まっていた。ボディには「ペンション・マロニエ」とポップな文字がペイントされている。
運転席のドアが開いて現れたのは水色のワンピースを着た美奈子だった。
「久し振り!!」
私は車に駆け寄って美奈子に抱きついた。
美奈子が会社を辞めてから一年以上が経っていた。
いつでも会えると言っていたのに、お互いに忙しくて美奈子が会社を辞めてから一度も会っていなかった。
時々メールをして、そしてごく稀に電話で話して。忙しいだろうに、美奈子は私の愚痴を文句も言わずにいつも黙って聞いてくれた。
一年経っても美奈子は相変わらず美人で、けれども会社にいた時とかなり印象が違う。ほっそりした身体が少しふっくらとして柔らかな女らしい曲線を描いている。もともと痩せすぎのきらいがあったからすごく感じがいい。そのせいか頬も少し丸みを帯びてとても優しい顔つきをしている。
だからそう、私が直感的にそう思っても無理からぬ事だと思う。
促されて車に乗り込み――普通はお客さんを乗せないであろう助手席に――美奈子の家のペンションに向う道すがら、私はどうしても黙っていられなくて美奈子に尋ねた。
「ねえ、もしかして、恋人でも出来た? それとも好きな人が出来たの??」
だってこんなに綺麗な美奈子は初めて見る気がする。もともと普通よりはちょっと美人だったけど、随分雰囲気が柔らかくなって内から輝くように綺麗になった気がする。
瞬間、美奈子の動きが止まった。けれども運転中で、すぐに美奈子は我に返って前方を眺めたままほんのりと唇を笑みの形に吊り上げた。
「――恋人じゃないけど……好きな人はいるわ」
「やっぱり!!」
私は嬉しくなって思わず手を叩いた。そう言えば美奈子と知り合って7年、こんな風に女友達っぽい恋愛の話をしたのは初めてかもしれない。
根掘り葉掘り聞く私に美奈子はぽつりぽつりと最小限の答えを返した。
「そっか、今幸せなんだ。良かった」
私がほっと胸を撫で下ろすと美奈子はちょっと目を瞠った後、ほんのりと微笑んだ。
――会社を辞めたい。
そんな風に思い余ってメールしたのは3日前。
そのメールから数分も経たずに携帯が鳴った。着信は美奈子。メールを送った相手だ。
そういえば美奈子から電話をもらったのは初めてかもしれない、美奈子が会社を退職してから。それに気付いたのは電話を切った後。
美奈子は長々とした私の仕事の愚痴を黙って聞いてくれて、それからお盆休みに美奈子の家のペンションに遊びに来るように誘ってくれた。
「えっ? だってお盆休みってすぐじゃない。部屋、空いてるの??」
私の問いに電話の向こうで美奈子が柔らかに笑う気配が伝わった。
「大丈夫。丁度一室空いてるから。仕事があるから昼間は付き合えないけど夜は9時過ぎれば空いてるし、何よりうららは少し気分転換した方がいいと思う」
そんな風に誘われて、例年通り何の予定も無い私は急遽美奈子の家のペンションでお盆休みを過ごす事にした。切符を手配して荷物をバックに詰めて。3泊4日の休暇。美奈子はペンションの仕事があるから忙しいだろうけれど、美奈子が会社を辞めてから1年。積もる話はきっと尽きないだろう。
職場でのストレスは変わらないけれど、それでも後二日働けば遊びに行けるという楽しい予定が私を少しだけ元気にしてくれた。
美奈子のご両親は小柄だけれど温和で優しそうなお父さんとスラリと長身で若い頃はさぞかし美人だったんだろうと思わせる美奈子似のお母さんだった。美奈子に紹介されてご両親に大歓迎される。それだけでちょっと風変わりなこの友人が両親の愛情を目一杯受けて育ってきたのだろうと手に取るように判った。私は手土産をお父さんに渡して「お世話になります」と頭を下げた。
荷物をといて人心地つくと夕飯まで私はペンションの周りを散策する事にした。ペンションは高地にあってごみごみした下界に較べるとはるかに過ごしやすく、空気も木々の濃い緑の匂いも森を渡る風や虫の声、鳥のさえずり、すべてが私のささくれたとげとげの心を優しく慰撫してくれるように感じた。ペンションのすぐ傍には湖があり泳げるそうだけれど水が冷たくて日中の一番暑い時間でもすぐに身体が冷えてしまうらしい。それに真水は身体が浮かないから泳ぐには向いてないとも言われた。
夕方に近い時間だったから湖の水はすでにとても冷たかった。それでも綺麗な水に両手を浸して子供のようにぱしゃぱしゃと水と戯れた。
湖はそう、似ている。
綺麗で凛としていて冷たくて、でも優しい。
美奈子に、似ている。
そんな風に時間の経つのも忘れてぼんやりしていると空があっと言う間に茜色に染まった。
夕食は他3組のカップルと一緒にダイニングでいただいた。山菜の天ぷら、淡水魚の塩焼き、漬物にお吸い物、玄米ご飯に根菜を炊いたもの、自然薯を摩り下ろしたものと地鶏の卵。田舎の家庭料理のような、でも少しだけ特別な料理のような。風味も味も格別で、その優しい、身体に染み渡るような料理は身も心も疲れ切っていた私を静かにじわじわと癒してくれた。
こういうのを多分、リセットするって言うんだ。
今まで一人旅はした事が無かったけれど、うん、悪くない。むしろ素敵。
疲れてへとへとだから同行者に気を使わなくていいのはとても楽。それに真に一人っきりなのではない。ここには美奈子がいるから。
9時を回ったらフリーになるという美奈子の言葉を思い出して早めに食事を終え、一番にお風呂を借りて汗を流した。
洗い髪を乾かしてパジャマじゃ幾らなんでも、とジーンズとTシャツに着替えてベッドにゴロリと横になる。部屋はツインだ。全室ツインで全部で4室。細々と暮らすにはそれで充分なのだと聞いた。
都会の喧騒が嘘のようにゆっくりとゆったりと流れる癒されるような優しい時間。聞こえてくるのは風のさざめきと虫の声。
夢見心地でうつらうつらとしていた私の耳に遠慮がちな小さなノックの音が夢の続きのように静かに響いた。