【 大好きな気持ちはいつも変わらない 】
■大好きな気持ちはいつも変わらない
【 大切な気持ちはいつも変わらない 】
■前編 ■中編 ■後編
【 愛している気持ちはいつも変わらない 】
■ 前編 ■ 後編
【 湖のほとりで君の夢を見る 】
■ 湖のほとりで君の夢を見る
【 母の肖像 】
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大切な気持ちはいつも変わらない 中編
キィと蝶番が小さな音を立てた。
そう言えば鍵をかけるのを忘れていた。
ゆらゆらと深い部分で揺れる意識をゆるりと浮上させる。身体の感覚が自分のものではないかのようにひどく遠い。
やっとの事で首を戸口に向けると、まさに今、開いた扉を閉めようとしていた美奈子が目に入った。
慌てて飛び起きる。
「あ、待っ、美奈子っ!」
そっと扉を閉めて立ち去ろうとしている美奈子を引きとめようと、焦って掠れた悲鳴のような声が私の口からこぼれ出た。
「起こしちゃったみたいね、ごめん」
再び扉を開けて部屋の中に入って来た美奈子は困ったような顔で後ろ手にドアを閉めながら私に謝罪した。
「やだ、謝んないでよ。だってこれから私の愚痴にたっぷり付き合ってもらっちゃうんだから。
――私の方こそ、美奈子の言葉に甘えて押しかけて来ちゃって、ごめん」
同じ会社で働いていてもお互いの家にまでは行き来した事が無い間柄だったのにこんな風に押しかけて、いろいろと切羽つまっていたとはいえ、相当ずうずうしい。自分でも呆れるほど。
でも電話の向こうから美奈子が私に手を差し伸べてくれているのを強く感じて思わず成り行きに身を任せた。それに、純粋に美奈子に会いたかったから……。
私は美奈子と一緒に窓際の籐椅子とガラステーブルに移動した。美奈子は持って来たチーズとワインをテーブルに置く。美奈子が慣れた手つきでテキパキとテーブルの上をセッティングすると私達は乾杯した。ワイングラスが触れ合う澄んだ音が小さく室内に響いた。
それから私は堰を切ったように喋り続けた。
近況。家族の事。そして私の中に鬱積した会社の事。
9月に新入社員が正式に各部署に配属されるに伴って会社では人事異動が行われる。そして私は半月後の9月に本社勤務から外れて営業所へ配属された。
そして今の私のポストには入社3年目の秘書課の女の子が入る。
このところずっとの超過勤務は引継ぎのために日常業務が滞ってしまうためだった。
「何て言うか、10教えても2、3理解して覚えてくれればいい方で、1つも理解できなくて覚えてない事の方が多いのよ」
だから時間は幾らあっても足りない。けれどもだからといって引継ぎをきっちり行わなければ前任者は何をやっていたんだという事になる。本社から営業所に異動はある意味降格だ。その上、あらぬ非難まで浴びたくは無い。
「うららの後釜って、誰??」
「秘書課の三木さん」
私の言葉に美奈子は何か思い当たったような顔をして大きく頷いた。
「ああ、あの子ね。うん、多分、……使えないと思う」
彼女は受付嬢だった美奈子とは課は違えど同じ総務部だった。美奈子は私よりも彼女の事を良く知っているのだろう。
「こういうのは私から言うべき事じゃないけど、今度の人事はうららに落ち度があったわけじゃないみたいね。彼女が後釜だって言うなら単純にうららのポストを彼女が望んだに過ぎないと思う」
実は私もそうじゃないかとは思っていた。社内の大方の噂も同様だ。ただ、私自身は彼女の事を良く知らないからなんとも言えないけれど。引き継ぎをして感じたのは彼女に後を任せると言う事に対しての拭い去れない不安。
「総合企画室って花形部署だから、自分を知らない頭の悪い女性は皆憧れてるわ。入社してすぐに配属されたうららは前例のない大抜擢だったらしいし。私も人事の先輩から聞いた話だけど」
美奈子は私のグラスにワインを注ぎながら抑揚の少ない冴えた声で話し続けた。
「もし、もし、うららが、どうしても異動したくないと言うなら方法が無いわけじゃないわ」
私は美奈子が言わんとしている事を理解してただ首を振った。グラスのワインをまるで水を飲むように喉に流し込む。酔ってなければこんな下らない話、とても出来ない。
「彼女と同じ土俵に下りて身体を売ってポストを守るの? 冗談じゃないわ……」
娼婦の方がまだまし。だって娼婦は純粋に身体を売って金銭を得る。それは生きていくための選択だから。でも私が三木さんと同じように身を落とせば、身体を売ってポストを得、かつ働いて報酬を得る事になる。そうしなければ仕事を得る事が出来ないならばそんな仕事は仕事なんかじゃない。
「噂で知っていると思うけど、彼女は専務の愛人よ。公然の秘密という訳だけれど」
美奈子の口を借りてにわかに現実味を帯びた、噂でちらっと聞いた事がある三木さんの行状に私は憤慨した。
人を蹴落として昇っていくのは構わない。けれどもそのために努力をするべきだと。もし彼女が能力的に劣っていても懸命に努力していれば私のストレスもここまで溜まる事はなかったと思う。引継ぎの間、彼女の態度はお世辞にも真剣とは言えないものでそれゆえに私は激しく打ちのめされた。
この職場にとっての私は彼女と同じほどに軽いのだ、と。
喉の渇きを覚えて目が覚めるとそこには見慣れない天井。
何度も瞬きしてそう言えば美奈子の家のペンションに来ているんだと思い出す。
それにしてもいつ眠ったんだろう?
窓の外はまだ暗く夜明けには遠いようだ。
ふと、反対側を向いて、私は思わず大声を上げるところだった。反射的にベッドから飛び起きる。
Tシャツとジーンズのままの自分の服装を見て、そして私が寝ていたベッドに寄りかかるようにして絨毯の上で眠っている美奈子に、酔いつぶれて眠ってしまった私をきっと美奈子がベッドまで運んでくれたのだろうと推察した。おそらくそれは間違っていない。
私は僅かな常夜灯の灯りに何とか判別がつく美奈子の寝顔をぼんやりしたまま暫く眺めていた。
眠っている貌はいつもよりずっと幼く見える。寝ながら微笑んでいるようなその寝顔は子供っぽい天使みたいだ。繊細な鼻梁、形のいい眉、長くて濃い睫毛、ふっくらとした唇。頬にかかる髪を払ってあげようとしてふと、我に返った。美奈子自身がいつも“ネコっ毛でまとまらなくて嫌になる”と言うその柔らかそうな髪に触ってみたくなるなんて、私、変だ。随分飲んだからまだ酔っているのかもしれない。
私は何度か深呼吸をしたあと、ベッドに凭れて眠る美奈子を揺り起こした。
「美奈子、美奈子。こんなところで寝てると風邪引くよ! 美奈子!」
時間が時間なだけに両隣の客室を意識して私の声はそれ程大きくなかった。でも、起こすために私は容赦なく美奈子を揺すった。
けれども美奈子の眠りはお酒が入っているためか相当深いようで、“う〜〜ん”とか“むにゃむにゃ”とか言いながらまたすぐにくーくーと寝息を立て、まったく起きる気配はなかった。
私はしばらく途方に暮れたままやはりぼんやりとしていた。それからやっとここにはもう一つベッドがあるのだからそこに寝かせればいいことに気がついた。
なぜだか物音を立てないように静かにベッドから降りて隣の綺麗にメイキングされたベッドの上掛けを剥がす。
それからもう一度声をかけて美奈子が起きる気配がないことを確認してから美奈子に抱きつくようにして抱きかかえて半分引きずりながら隣のベッドに美奈子を寝かしつけた。
寝かしつけたと言うより、美奈子もろとも私も一緒に倒れこんでしまったと言うのが正解なんだけど。痩せているけど身長も高いし胸も大きい美奈子は非力の私にとってはそれなりに重かった。
運悪くベッドと美奈子に挟まれた形に倒れ込んでしまった私は慌ててそこから這い出そうとした。でも、何故だか身体の力が抜けて動けなかった。酔いがぶり返したようにひどく頭がぐらぐらする。
夏物の薄い生地から美奈子の熱がじんわりと私に伝わってきた。息をつめていると美奈子の穏やかな心臓の音すら聞こえてきそうなほどあたりはシンと静まり返っていた。
美奈子の体臭なのだろうか。仄かな汗の臭いと美奈子の愛用の香水の匂い、それとは別にどこか濃厚な甘い匂いが私の鼻腔をくすぐった。