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 大好きな気持ちはいつも変わらない

 【 大好きな気持ちはいつも変わらない 】
 大好きな気持ちはいつも変わらない
 【 大切な気持ちはいつも変わらない 】
 前編   中編   後編
【 愛している気持ちはいつも変わらない 】
  前編    後編
【 湖のほとりで君の夢を見る  】
  湖のほとりで君の夢を見る
 【 母の肖像 】
       


湖のほとりで君の夢を見る


 湖に夕日が落ちて輝いていた。
 手をつなぎながら歩いていた母親が突然足を止めたので転びそうになったのをようやく踏みとどまりながら初音は母を見上げた。
「どうしたの、母さん」
 背がスラリと高くて端正な母親は夕日の作り出す陰影でさらに美しく初音の目に映る。
「ねえ、どうしたの? どうして止まったの?」
 急に彫像のようにピクリともしなくなった母親の腕を引きながら、初音は更に言い募った。
「ねえ、……母さん?」
 夕日を眺めていた母親の瞳がゆっくりと初音に向けられる。
 その瞳にはなんの感情も映り込んではいなくて、まるで人形のようだ、と初音は思った。人形みたいだけど、でも、どこか惹きつけるものがある。
「思い出していたの……」
「何を?」
「いろいろな事を」
「いろいろって、父さんの事とか?」
 母親は目を伏せてゆっくりと首を振った。
「そうじゃないの。そうじゃないから、だから、私は酷い人間なんだって、そう思ったわ」
 母親――美奈子は不思議そうな顔で見上げる娘に少しかげりのある笑顔を向けた。
 つながれている小さな柔らかな手をたまらなく愛おしいと思うのに、小さくて温かなこの何にも替え難い存在を気が遠くなるほど愛しているのに、それなのに自分の胸に住んでいるのはただ一人の人なのだ。
 お盆に遊びに来た時にこの湖のほとりを二人でぶらぶらした事が昨日の事のように思い浮かぶ。
 それから酔っ払って意識のない思い人を抱きかかえてベッドまで運んだ夜の事。
 かすかな石鹸の匂いと汗のにおいと、むき出しになっている腕の柔らかさと、椅子に仰け反って泥酔している白い喉仏とくっきりとした薄い鎖骨。
 そしていてもたってもいられなくて会いに行ったクリスマス・イヴの夜。背後からぎゅっと抱き締めた身体の思わぬ華奢な感触に、そんな華奢な身体で精一杯頑張っているのだとそう思うと、胸が引き絞られるようにキリキリと激しく痛んだ。
 愛しているのだと何度口走りそうになったことか。
 抱き締めて離したくないとどれほど夢想した事か。
 言葉を紡ぎだす口唇を腫れ上がるほど強く噛み締めて、すべてを秘めたまま今日まできた。
 そしてこの気持ちは息絶えるその瞬間まで胸に秘めたまま大事に大事にしまっておこう。
 きらきらと湖面を輝かせる真っ赤な夕日を眺めながら美奈子は空いている反対の手でそっと自らの胸を押さえた。
「さ、行きましょう。ごめんなさいね、立ち止まっちゃって」
 何度かゆっくりと瞬きした後にいつもの表情に戻った母親は繋いだ手を軽く握りなおして小さな初音に笑いかけた。
 初音は頷きながら母親と再び歩き出す。
 仕方がないな、と初音は思う。
 自分の父親である男に捨てられ、離婚して、こうして母親の実家に戻るのだから。
 今日の母親が少しぐらいおかしくても不思議はないだろう。
 それでもどこか超越したところで明るい顔をしている母親に自分もまた救われているのだと幼い初音はまだ気付く事が出来なかった。



END