天使のキス
続『一緒に暮らそう』
羽のように軽く、藻のように柔らかでしっとりした口吻。
――ああ、また、あの夢だ……と思う。
体調が悪かったり、気分がイライラしたり、疲れが溜まると見る、心だけではなく身体の隅々までが癒されるような優しい夢。
その夢を見ると翌日以降にそれまでの体調不良や不安定な気分を払拭するような素敵な何かが待っている。
だから私はたちまち安心してぐっすりと眠れる。今までの不眠がまるで嘘のように。
朝起きて一番初めに好きな相手の顔を見る事が出来るのはなんて幸福な事なんだろう。
こんなに近くにいるのに触れたいという欲望を抑えなければならないのはとても辛いけれど。
大学進学とともに私達がルームシェアをはじめてもうすぐ1年になる。
お花見、ゴールデンウィーク、七夕、夏休み、クリスマス、お正月、節分と幸運にも一緒に過ごしてこれた。それは彼女に運命的とも言える出会いがなかったから。
そしてまた、バレンタインデーが来る。
今年は多分、大丈夫。
今のところ彼女にそんな気配も素振りもない。
ただ、バイト先で渡す義理チョコに勘違いされて誰かから迫られたりしなければ……だけれど。
惚れた弱みとかではなくて、一般的に見て彼女は可愛い。華奢な首や四肢は保護欲をそそるし、胸は意外と大きいし、茶色がかった長い髪と黒目がちの大きな瞳、おっとりとした癒し系の雰囲気をかもし出す彼女は一般的に見て可愛いと言えると思う。恐らくごく普通の男性の好みにぴったりとあてはまるのではないだろうか。あいにく私は男性ではないから真実は判らないけれど。高校時代も学校の行き帰りや街中で告白されたりナンパされたりする事が多かったし。
それを考えれば彼女の大学が宗教系の女子大で本当に良かった。でなければ今頃どうなっていたか、考えるだけでもそら恐ろしい。
この悶々とした日々に加えて更に嫉妬と独占欲に雁字搦めになって、きっと私はおかしくなっていただろうから。
「おはよー、今日は和食なんだ。いー匂い」
ダイニングに充満する味噌汁の匂いにホッとしながら顔を出すと彼女がキッチンから顔を出してふんわりと笑った。
食事当番は一日交代。こうして好きな人の手作りの料理を日常的に食べられるのはなんて幸せな事なんだろう。
「おはよう。すぐできるから座ってて」
ご飯と味噌汁と干物と卵焼きとおひたし。典型的な和朝食があっという間にテーブルに並ぶ。
「昨日飲んで帰って来たからご飯はお粥にしたけど食べられそう??」
ツヤツヤの真っ白なお粥をよそったお茶碗を渡される。
「ん、大丈夫。今朝は妙に元気でバリバリ食べられそう」
そう言えばこのところ食欲もイマイチだったと思い出す。こんな小さなことでも彼女の気遣いが嬉しくてやっぱりいい夢を見た後はいい事があるんだなぁとしみじみ感じた。
「本当ね、今日はなんだかすごく楽しそう。昨日の飲み会で何かいいことでもあたったの?」
「え? ううん、飲み会じゃなくて、夢見が良かったんだけど……」
「どんな夢? 聞いてもいい??」
ふわりと小さく笑いながら聞かれて答えに詰まってしまう。
キスされる夢だなんて、まるで欲求不満みたいで恥ずかしい。間違いなく欲求不満足なのは事実なんだけれど。だからといってすべてをぶちまけてこの親友と言う特別で素晴らしい環境から抜け出す勇気はまったくない。
「あー、うん。ほら、いい夢って話しちゃうと効力を失うって言うじゃない?」
「ふふふ。そうね。聞かない方がいいかも……」
少女っぽい迷信を信じる彼女をうまく煙にまいて、私はほっと胸を撫で下ろした。
どきりとした。
息が止まるかと思った。
どこかうっとりとした表情であなたがスラリと形のいい指先でなぞるように自分の口唇に触れた。
――私は、あの口唇の感触を知っている。
同居をはじめて1ヶ月ぐらいした頃から時々、飲んで帰って来たあなたが深く眠り込んだ時に、私はそっとあなたの部屋に忍び込んで、あなたを起こさないようにこっそりとあなたの口唇を奪い続けている。
今だけだから。
期間限定の同居だから。
自分の心に言い訳をして、あなたに触れたいという自分のうす汚れた欲望を満たしている。
しっとりとそしてつるりとした柔らかな口唇。あなたの寝顔は幸せそうに微かな笑みを浮かべていて、その口唇は緩いカーブを描いて僅かに綻んでいる。そのうっすらと開いた口唇からもれる温かくて甘い息が私の口唇に触れて私の胸をじんわりと犯していく。脳が痺れるような喜びといくばかりかの罪悪感にじわじわと私が犯されていく。
――好き。
心の中で呟いて何度も何度も眠るあなたと口唇を重ねる。
この熱くこらえきれない気持ちがあなたの中に宿って、いつか私と同じ気持ちになってくれないかと自分に都合のいい奇跡を願って。
「あー、お味噌汁おいしー」
昨日までどことなく元気のなかったあなたが今日は幸せそうに朝から笑顔で私の作った朝ごはんを食べてくれる。
こんなに幸せなのにもっともっとと際限なく望む私はなんて貪欲で強欲で我儘で贅沢なんだろう。
ただ、一緒にいられればいいと思っていた高校時代の私はここにはもういない。
あなたを手に入れたい。
私の物にしたい。私だけの物にしたい。
私に縛り付けたい。
あなたの目に私しかうつらなければいいのに、と思ってしまう。
いつかキスだけでは済まなくなってしまうだろう恐ろしい予感に私はそっと目を閉じた。