明晰夢を見ている 前編
続『天使のキス』
ついつい飲みすぎちゃったのは後輩に変な事を言われたから。
「私達の事、何も知らないくせに……」
思わずこぼれてしまうのは本音。私達の事、と言うよりは私の気持ちと言うべきかも知れないけれど。
視界が妙にぐらぐらするのは飲みすぎたせいとその前に飲んだ頭痛薬のせいかもしれない。それとも咳止めの薬のせいかな。
飲みすぎてふわふわと気持ちが良いのを通り越してぐにゃぐにゃと歪む視界。
ため息とともに見上げれば、どんよりとした雲に覆われた夜空。そこには星も月もあるはずなのに何も見えない。
たったそれだけの事なのにひどく心もとなくて更なる眩暈が私を襲った。
入社して丸5年。ゴールデンウィーク明けには毎年恒例の新入社員の歓迎会がある。
「センパーイ。確か先輩の部屋って会社から二駅でしたよね??」
大学時代から住んでいる住居に近いがために選んだ会社なのだから近くて当たり前。
「そうだけど、それが何??」
「いえ、あたし、今日はトコトン飲むつもりなんですよぉ」
3歳年下の後輩は入社2年、今年で3年目。先日失恋しちゃったと周りを巻き込んで騒いでいたけれど、どうやらまだその失恋に決着がついていないと言うことだろうか。
「それで終電が無くなったら先輩のトコに泊めてもらえないかと思って」
「う〜ん、駄目。うち同居人がいるから」
「ええっ! 先輩って同棲してるんですかぁ?」
びっくりした顔でまじまじと見つめられて思わず苦笑する。同棲だったらいいんだけど、完全に私の片思いだから。
「違う違う。友達とルームシェアしてるのよ」
「そっかぁ、それは残念。やっぱり相手に気兼ねして来客とかも遠慮しなきゃならないんですねぇ。あたしは同居とか絶対無理。三日で喧嘩して飛び出しちゃいそう」
「――そうでもないわよ。相手は親友だし。同居は長いから“空気の存在”みたいなところあるし」
それに片思いとはいえ好きな相手とずっと一緒に暮らせるなんてそうそう無い幸運だから。
「ふうぅん、そういうものかなぁ? 長いって何年ぐらいなんですかぁ?」
「ええと、大学時代からだから……かれこれ9年過ぎて……今年で10年目かな」
「えぇ―――っ! 有り得なぁい! いくら親友でもそれはおかしくないですかぁ。恋人出来たら不便だし、“空気の存在”って言っても所詮他人で家族じゃないのに!」
確かに普通じゃないって判っている事だけど、他人に指摘されるとムッとくる。でも、初めての恋で、そして今でもたまらなく好きでい続けている相手。だからこそどこかおかしいと思いつつも自分から今の状態を終わりにする気にはとうていなれない。
そう、彼女は一体何を考えて私と同居し続けてるのだろう。
有り得ないけど、私と同じ気持ちだったら……と時々自分に都合よく考えてみたりする。
出会った時の高校時代と同じように一人っ子で寂しがりやの彼女はきっと姉のように私を慕ってくれているだけだと、判っているのに。
そんな詮無い事をグルグルと考えながらハイピッチで飲み続けて、終電前の2次会までしか参加していないのに、私は歩くのもやっとなくらいにおぼつかない足取りになってしまっていた。
ちょっとどころではなくかなり飲み過ぎてしまった、失敗。
だからどうやって家まで辿り着いたのか、途中途中部分的に記憶がない。
それでもなんとか玄関まで辿り着き、そこで座り込んでうとうとしていると、髪を梳きながら頭を撫でるうっとりするくらい気持ちのいい柔らかな感触。
「こんなところで寝ると風邪ひくわ」
顔を上げると彼女が心配そうに私を覗き込んでいた。彼女は私の腕を自分の肩にまわして私を支えるようにして立ち上がらせると、私が重たいせいでよろよろしながらも私の部屋へ連れて行ってくれて私をベッドに寝かせてくれた。
スーツの上着を脱がせてくれてハンガーに掛け、シャツブラウスの襟元をくつろげ、スカートのホックを外してくれる。それだけでふわふわしているのにどこかずっしりと重たい身体が少しだけ軽くなったような気がした。
彼女が何度も私の名前を呼んだけれど目を開けるのも口をきくのも億劫で、そして私の名前を呼ぶ彼女の声をいつまでもいつまでも聞いていたくて私は目を閉じたまま返事もせずに眠ったふりをした。
彼女はそっと私の身体に触れて起こすように軽く揺すった後、ため息をつきながら静かに布団をかけてくれた。
顔にかかる髪を払ってくれたのか、髪を梳かれる感触がやっぱり気持ちいい。
その指は私の顔の輪郭を辿るようにゆっくりと頬を滑っていく。
そして口唇に柔らかな感触。
それは羽のように軽く、藻のように柔らかでしっとりした口吻。
――ああ、また、あの夢だ……と思う。
体調が悪かったり、気分がイライラしたり、疲れが溜まると見る、心だけではなく身体の隅々までが癒されるような優しい夢。
私が天使のキスと呼んでいる、それ。
その天使がいつの間にか私の意志の力で彼女に入れ替わっていた。
ああ、これは夢なんだ。すべてが私の思い通りになる夢。
だから、どうしてか聞いてみよう。
そして私に心地良い答えが返ってくるに違いない。
せめても夢の中ぐらいこの初恋にしてただ一度の長い長い恋を成就させても彼女を冒涜したことにはならないだろう。
私は起き上がって彼女に手を伸ばした。
ほっそりとした腕を掴むと、夢の中なのにびっくりするほどリアルな感触と思わぬ体温の暖かさに胸が高鳴る。
今まで言葉に出来なかった。ずっと不思議に思っていた事。
そう、でも、夢の中でぐらい勇気を振り絞って聞いてみよう。
私に都合のいい答えが返ってくるのは判りきっているけれど。
「どうして、どうしていつも私にキスするの??」
夢の中だというのにそう尋ねた私の声はひどく震えていた。