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夢見るカラス 5
まただ。
まただ、と思った。
輝く強い瞳が私を刺し貫くかのように見つめている。
皮膚の表面の細胞の一つ一つがそれをまざまざと感じ取る。
激しい動悸に眩暈がした。
こんな風に私はいつまでこの痛いほどの視線に耐えれば良いのだろう。
あと、5ヶ月、あと4ヶ月と耐えて来たけれど、それは本当にあと数ヶ月で終わるのだろうか?
そう考えてゾッとして気が遠くなった。
彼女は私の人生上に係わるはずの無いまったくの理解不能なタイプだった。身体の隅々まで自信に溢れていて明るい太陽の下で翳りの無い満面の笑みを浮かべて人生を謳歌している。
私にはあまりにも眩しくて、目にするだけで胸が苦しく、息が詰まってしまう。
どれだけこんな日々を続ければこの責め苦は終わるのだろう。
鬱々と考える日々に終止符を打つために私はまた、人生上で何度目かの決断を下した。
異動願いを出そう。
勿論担任を持っているのだから本来は2年生の生徒達が3年になり卒業をするまで面倒を見るのが一般的で普通なのだけれど、その1年間を自分が耐え続ける事ができるとは到底思えなかった。
そんなふうに逃げるような私の事を彼女がどう思おうと少しも構わなかった。
今の苦しくて辛い状態から逃げ出せさえすれば。
そして……私はやはり浅はかで愚かだった。
あまりの自分可愛さに、私の行動にどれほど彼女が傷つくか考えもしなかったのだ。
こうして目の前で、顔を真っ赤にして涙を堪えて唇を噛み締めて俯く少女を目にするまでは……。
「――海野さん……」
なんと声をかけていいのか逡巡していると少女は顔を上げてあの強い眼差しで私を射た。すべてを暴かれるようなその視線にたちまちいたたまれなくなり私の方が視線を逸らす。まるで裸でその場に居合わせているかのように酷く自分自身が心もとなくなるのだ。
「先生、辞めないで下さい。
――もう、先生を見ませんから。
もう先生を追いかけません。
先生の気配を探ったり、先生の声に耳を傾けたり、先生の姿を追ったりしません。
だから辞めないで下さい。
私、もう、諦めます……だから……お願い、辞めないで……」
すべてを暴き、すべてを射抜く強い瞳が目蓋で静かに隠される。閉じられた目蓋の端から光る涙がいく筋もふっくらとした頬を伝い落ちた。
私を追い立てる瞳は閉じられているのにどうして私はこんなにもいたたまれない気持ちになるのだろう。
鈍い痛みがじわじわと私を駆け抜ける。この胸の奥に広がるように燻るのは焦燥?
思わず立ち上がって少女に触れようと伸ばしてしまった手が空を掴む。我に返って頭から冷水をかけられたようにぶるりと身震いした。
私はいったい少女に触れてどうしようとしているのだろう。
恐れとおののきが全身を貫く。
無意識に後ずさろうとして、ソファにふくらはぎが当たり我に返った。
この場から逃げ出したい。居ても立ってもいられない。
この少女のいない世界で穏やかな気持ちで暮らしたい。
どうしたらいいのか判らない。
逃げたい。
逃げたい。
――逃げたい!
頭の中をぐるぐると巡る理由も無い恐怖が私を駆り立てる。
私はどうしてしまったのだろう。
今まで恐れるものなど何一つ無かったのに。
私を脅かすものなど存在しない世界で生きて来たのに。
足に力が入らずに、立ち続ける事が出来なくて私はぺたりとそのままソファに座り込んだ。
苦しくて、苦しくて、息が出来ない。
どのくらいそうしていたのだろう。
苦しさに目を閉じて両手で耳を塞ぎ身体を折るようにして耐えていると、傍らに人の気配がした。
目を開けると、至近距離に彼女がいた。跪いて心配そうな顔で窺うように私を覗き込んでいる。
でもそれは絶対に触れ合わない距離で、泣きはらした目の淵が赤くなった可愛い顔は困ったように躊躇うようにしかめられていた。
「泣いたりして……、ごめんなさい。
先生を苦しめるつもりは無かったんです。
私の存在が先生を苦しめるのなら……、引き止めたりしてごめんなさい。
私には何の権利も無いのに……。
ただ、先生が好きだと言うだけで、こんなところまで踏み込んでごめんなさい……」
一言一言噛み締めるようにその唇から言葉が搾り出される。その両手は胸の前で祈るように組み合わされ、私の目のすぐ前でブルブルと小刻みに震えていた。
そして、また、私は急に冷静になった。あれほど騒がしかった全身がしんと静まり返る。
17歳の少女の素の姿が、いつも私を冷静な自分に立ち返らせる。
彼女がどんな気持ちでその言葉を振り絞ったのかを考えると恐ろしさに逃げ出したくなるけれど、私は教師で、28歳で、11歳年長で、成熟した大人なはず。
だからこんなに少女を悲しませたり傷つけたりしてはいけない。太陽のように強く明るい彼女の存在に影を差してはいけない……。
「――海野さん……」
私の方からゆっくりと手を伸ばす。その距離はほんの僅か。私達の距離は驚くほど近い。過去にこんなに誰かを近づけたことがあっただろうか。そう思うだけで恐怖が私を染め上げていく。
けれど、伸ばした指先に触れた柔らかな頬がまだほんのりと湿っていて胸を射る痛みが恐怖を塗り替えていった。
「――私の方こそごめんなさい。
海野さんのせいじゃないの。先生達の間でもいろいろあって、前々から合わないと思っていたの」
私は彼女の涙の後を消すように幾度もその頬を両手で撫でた。
年下の歳若い体育の男性教師から告白されて、それを断ってから何度か居心地の悪い思いをしたのは事実だった。そしてその体育教師に思いを寄せている複数の女性教師と少数ではあるけれど敏感な女生徒達からの嫉妬は容赦なかった。
でも、それは今に始まったことではない。
そんな事で私は変わらない。逃げ出そうとも思わなかった。
なのにどうして私は今、小さな子供のように恐れおののき右往左往しているのだろう。
ただ純粋に愛しているとだけ告げる少女の言葉に、ひどく雄弁な少女の眼差しに。
自分の考えにはまり込んでいた私はふと我に返って、自分の手が無意識にしていた行為に全身の血が逆流するかのように感じた。まるで特別な人間にするみたいに許可無く頬に触れて撫でているなんて、信じられない。
心臓が早鐘を打ち、呼吸すらもままならなくなった私に困惑の表情のまま少女は言った。
「――じゃあどうして先生は泣いているの??
先生が言うように私が原因じゃなければ、私は先生を好きでい続けてもいいんですか?
私は先生の言葉を信じてもいいんですか??――」
窺うような、疑うような響きを含む声音よりも、その言葉が私を打ちのめした。
咄嗟に触れた私の頬は彼女の言葉を裏付けるかのようにひどく濡れていた。
――私、泣いていたの?
何年も流した事のない涙の存在に思わず私は息を飲んだ。