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 夢見るカラス

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夢見るカラス 6

:微妙な表現が含まれています)

 声も無く無表情に涙を流す先生を見て、うなじが粟立ち、胸がキリキリとした。
 この美しくて優しい人を泣かせているのは私なんだ。
 私が先生を好きになったばかりに、先生は苦しんでいる。
 確かに先生の言うように今の学校では先生の立場は微妙だった。先生は綺麗過ぎる。それは美人だというのも勿論だけど大人なのにとても純粋で、そう、綺麗と言うより無垢と言った方がぴったりかもしれない。無垢で美人で優しくて穏やかでどこか浮世離れした透明さがあって、他者を惹きつける神秘的な雰囲気を纏っている。カリスマがあるというほどは惹きつけないけれど、蜜を湛えた花のように凛としているのに風にも耐えないような風情をも有していて、私達が蝶ならばふらふらと惹きつけられてしまうのは必然だろう。
 私が先生を苦しめているのに、私の頬を慰めるように撫でる指先は優しくて温かい。この温かさが先生そのもの。誰にでも注がれる先生の優しさ。この温かさをこの体温を特別なものにしたかった。手に入れようとした私が悪い。せめて受け入れてもらいたい、と気持ちを告げた私が悪いんだ。この一般的とはいえない気持ちをどうして告げてしまったんだろう。先生を苦しめるなんて判ってた事なのに。
 ただ声も無く涙を流す先生の涙を拭って抱き締めてあげたい。そんな事が私に許されるはずも無いけれど。うんと年上で知的な先生なのに時々小さな少女のように頼りなくなる。今、涙を流す先生も先生と言うよりは無垢な少女のようだった。
「じゃあ、どうして先生は泣いてるの?」
 先生の優しさが私を責めない。けれど先生の真実はどこにあるんだろう。私から逃れようとしている事は明白なのに。
 自分が先生に涙を流させていると思うと目の奥がちりちりと痛む。けれど私は泣けない。また泣いたら先生がもっと苦しむから。絶対に泣いたら駄目。
「先生が言うように私が原因じゃなければ、私は先生を好きでい続けてもいいんですか?
 私は先生の言葉を信じてもいいんですか??――」
 先生の優しさを逆手にとる。そうすればいくら優しい先生でも私に引導を渡してくれるに違いないから。先生を苦しませるよりその方がいい。
 ――違う。
 私はずるい。
 まだ、先生の優しさにしがみついていたくて先生の傍にいたくて先生の偽りの言葉を信じようと縋ろうとしているだけ。とっくに真実は見えているのに。
「――私、泣いていたの?」
 無表情だった先生の顔が驚きに塗り替えられて、私の頬に触れていた先生の指先が離れていき、その指は今度は自分の頬へ確かめるように触れた。
 先生の指が離れただけで私の心が悲鳴を上げる。寂しいと、切ないと泣く。
 こんなにも愛しているのに先生に私の言葉は届かない。
 私が愛を語るたびに先生は曖昧な笑みの仮面をかぶって私を拒絶する。
「先生、泣かないで下さい。私が先生を苦しめているのでないなら、先生を抱き締めさせて下さい!」
 あまりにあどけない泣き顔で私を見返す先生に理性があえなく決壊した。突き動かされるようにほっそりとした柔らかな身体を抱き締めて、私は涙に濡れた頬に唇を寄せていた。咄嗟に抵抗を見せた先生の身体の強張りがゆっくりとほぐれていく。
「好きです。もう言わないから最後に言わせて下さい。
 先生を愛しているんです。
 ずっと、ずっと、先生が好き」
 それは先生を失ってもきっと続く気持ち。私には判っている。
「どこにいても先生を愛していて、いつでも先生の味方になる人間がこの世界にいることを心の片隅にとどめて置いて下さい。それ以上は望みません」
「うみの…さん…」
 吐息のように洩れた先生の声に導かれるように唇を重ねる。温かで柔らかな感触に眩暈がする。愛する人を抱き締めて触れ合っている幸福。その相手と心が通じる事がないという絶望的な現実。
「私の一生分の“好き”は先生だけのものだから……」
 のぞき込むように先生の目を見つめると先生の瞳が戸惑うように何度か揺らいで眩しそうに細められた。溢れた涙がまた先生の頬を伝う。
 そのうっとりしているような蕩けるような瞳に私の全身が心臓になったように大きく脈打った。私を誘うはずもない先生にそれでも勝手に煽られてそのままソファに押し倒し、深く唇を貪った。先生の中は温かくて、思考までもが蕩けてしまいそうになる。
 先生以外に何もいらない。ただ一つだけの私の欲しいもの。それは手に入れようもない、先生の心。
「――先生、アユミ先生、好き。
 大好き。
 愛してる」
 呪文のように繰り返し吐露し続ける私の心。
 このまま暴走し続ければ先生も私も駄目になる。頭の片隅の冷めた部分では判っているのに心の暴走を、身体の暴走を止められない。
「駄目、ダメよ……」
 か細い先生の声が先生の身体をまさぐっていた私の手を止めた。その手に重ねられた先生の手は先ほど涙を拭ってくれた優しい手と同じとは思えぬほど冷たく冷えて震えていた。


 そう、今まで生きてきた私の人生上で唯一私が欲しいと思ったもの。
 それが、この恋の成就。それは努力してもどうしても手に入らないもの。
 他人からすべてを持っていると嫉妬されても、私には持っていないものがたくさんあった。それは“普通”と言うこと。
 でも、この恋に気づいた時に“普通”であることはすっぱり諦めた。“普通”であろうと執着すればこの恋を受け入れることは出来なかったから。
 17年間の人生で恋未満の淡い気持ちを何度か味わう事があったけれどもそれは瞬間の事ですぐに真実が見えて気持ちが冷めてしまった。こんな風に誰か一人に執着するのは生まれて初めてで、自分の思い通りにならない自分の感情を持て余すのは切ないけれどもどこかほのかに甘やかだった。
 何一つ欲しがらない私がただ一つ欲しいと思ったもの。けれどもそれは絶対に手に入らない。だって、相手にも感情があるから。
 勉強だって運動だって努力すればその分何かしらの形で自分の身に返ってくる。けれども恋はこの恋はどうしようもない。だって、私達は同性で異性ですらない。そして私は17歳の小娘で相手は28歳の大人の女性だ。適齢期を迎えている大人の女性が私など相手にしてくれるわけもない。
 それ以前に私達は同性なのだけれども。たとえ私が異性でもこの年齢差はかなり難しいと思う。
 先生は美人で頭が良くて優しい。おおよその男性が望むものを持っている。先生は誰でも好きな相手を選べるのにこんな私を対象にしてくれるはずもない。
 判っているのに、この気持ちを止める事は出来なかった。先生の伏せられた眼差しが、ほのかに笑みを刻む口元が、その一挙一動がこんなにも自分をひき付けるのはどうしてなんだろう。先生がそこにいるだけで、すべての音が消えて、先生以外のすべての色彩が失われる。
 私の世界は先生で満ち溢れている。
 他人を、誰かを、本当の意味で好きになるのは生まれて初めてで、だからこそ吸い寄せられる吸引力にあらがう事は不可能だった。
 そして気がつくのは自分が思うように相手が思ってはくれないという当たり前の真実。
 両想いになるにはあまりにも低い、低すぎる確率。
「せんせい、――好き……」
 なのに想いは言葉になって私の中から溢れ出す。際限なく止め処もなく。
 先生の身体は温かくて先生の唇は柔らかくて、私をケダモノのように突き動かす。先生が好きすぎて胸が痛い。好きすぎて息苦しい。息苦しくて頭がボーっとする。頭が働かない。理性が簡単に焼き切れてしまう。
 震えながら冷たい手で私を制止するその様に、あるわけも無いのに誘われる。蕩けるような表情で目を潤ませ、目元を赤らめながらほんの少し寄せられた眉が、濡れて震える長い睫毛が、私の心に火をつけた。
 先生の上気した目元にキスをして耳に唇を寄せる。
 口では駄目って言ってるけど、まるで、そう、まるで、誘うような姿態の先生。
「好き。先生が好き。愛してる」
 私の手をとどめる先生の手の力が徐々に抜けていく。
「私には先生だけなの。好き、大好き」
 抵抗を失った手が私の指と絡む。
「――あいしてる……」
 そのまま唇でほんのりと色づいた先生の耳をやんわりと噛むと先生の身体は電気を流されたかのように震え、先生の唇から小さな悲鳴が洩れた。
 その喘ぎのような甘い声にくらくらしてしまう。
 真っ赤になって咄嗟に両手で口元を押さえた先生の姿に今までもしかしたらと思っていた考えがにわかに現実味を帯びた。
 私は先生の両手を口元から引き剥がすようにして、ついばむようなキスを幾度も繰り返した。確かめたくて先生の濡れた瞳を覗き込む。
「好き」
 先生の瞳が逃れようとするようにせわしなく彷徨う。
「先生は私が嫌いですか?
 嫌いならはっきり言って下さい。
 だったら先生が辞めるまでもなく私が先生の前から姿を消しますから」
 彷徨っていた視線が私を見つめ、その目は驚きに見開かれた。先生の両手が祈るように胸元でぎゅっと組み合わされて指先が白くなるほど強く握り締められていた。
 何か苦しい事でも耐えるように目を閉じて顔を顰め、そしてその後ほどけるように全身の力を抜いた先生はゆっくりと目を開けて目元を緩めた。
「――嫌い。あなたが怖くて大嫌いなの……」
 私の大好きな柔らかな声音で先生は鋭い言葉をこぼした。


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