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夢見るカラス 7
苦しくて辛くて、胸が痛くて、頭が割れてしまうのではないかと思うほどの痛みに襲われて。私はとうとう息も絶え絶えになりながら言ってしまった。言ってはいけないとあれだけ避けていたその言葉を。
「――嫌い。
あなたが怖くて大嫌いなの……」
口にしたその言葉のあまりの重さに我に返って息を飲む。
いい大人の、教師の、担任の私が口にしていいはずもない、その他者を傷つける重い重い言葉。
長い静寂が私達の間に横たわった。
太陽のように眩しく明るい彼女は、もしかしたら他人に“嫌い”などと言われたのは初めてかもしれない。彼女の中の私の存在を綺麗に消し去りたいのに余計なキズを刻み込むような事を言ってしまった。
その言葉を言ってはいけないと、ずっと自分を戒めていたのに。
「…あ、あの、……」
沈黙に耐え切れずに私が口を切る。けれどもどうやって今の失言を無かった事にしたらいのだろう。そんな事が出来るわけもない。だったら潔く謝った方が幾分かましではないだろうか?
「ご、ごめんな――」
私の途切れ途切れの言葉は、突然の海野さんの笑い声に掻き消された。身を捩って狂ったように爆笑している。
「う、うみのさん……??」
私の混乱をよそに海野さんの爆笑は止まらない。身を折って全身をぶるぶる震わせながら息を荒くして肩でゼイゼイと呼吸をしながら笑っている。まるで壊れたように。
その様を見て私は激しい眩暈に襲われた。息が苦しい。胸が軋むように痛んだ。
私が彼女を傷つけてしまった。
不用意な言葉で。
真実を告げて。
陽の当たる輝かしい人生を送って来た朗らかで明るい影などないような眩しい少女を、私が、傷つけてしまった。
私は海野さんの笑いが納まって、ひぃひぃ言いながら目元を拭うさまを引き絞られるような胸の痛みに耐えながら、ただ黙って見守った。
口にしてしまった言葉はもう戻らない。覆水盆に返らず、だから。今更何を言う事があるだろう。
――なのに、どうしてだろう。
目元にうっすらと浮かんでいた涙を拭って顔を上げた彼女の表情は眩しいほどに晴れやかだった。
気が狂ってしまったのだろうか。
不安が私を打ちのめす。
「先生は私が嫌いなんですね」
「そ、それは……」
「いいんです。ずっとそういう風にはっきり言ってもらいたかったんです。
有難うごいざいました。
――でも、やっぱり私は先生が好きです」
「海野さん……」
いつもの射抜くような強い眼差しではなくて、まるで愛しいものを見るような柔らかな眩しげな眼差しで彼女が私を見つめた。
「先生の気持ちを教えて下さって良かった」
その視線がゆっくりと熱を帯びる。そしていつものあの、射抜くような、すべてを暴く眼差しに徐々に変わっていった。
「本当に良かった……」
少女は輝くような笑顔で言葉を紡いだ。
「――だって、気づいてしまったんです」
「?? うみのさん……?」
「先生の言葉は全部心の裏返しだって」
「――えっ!!」
海野さんの言葉に私は更に混乱した。その女生徒が何を言っているのか咄嗟に理解できなかったのだ。
「先生が学校を辞める事だって、先生が私のせいじゃないと言えば私のせいだし、駄目って言っても身体は嫌がってないし、そういうことをすべて考えると、判ってしまったんです、私」
「う、海野さん!!」
「先生は私が好きなんです。
もう隠せませんよ、気づいてしまったから」
「そ、そんなこ……」
「だって考えても見て下さい。女同士とはいえディープキスを嫌がらないで“嫌い”なんてありえますか?
先生は自分の顔が見えないから判らないでしょうがまるで愛する人に口づけられているかのように先生は蕩けるような顔で私のキスを受け止めていました」
「そ、そんな……。そ、それは私がゲイだから……」
慌てて返答して隠していた私の嗜好を告白してしまったことに私は気付かなかった。海野さんのびっくりした表情に我に返り咄嗟に自分の口元を押さえる。
けれども彼女は驚きの表情をすぐに笑みに変えた。
「先生がもともとそういう性指向だとは気づきませんでした。でも、だからって私は生徒で、先生を好きだとは言っても先生の性癖を知らなかった。そういう相手に先生はあんな顔で口づけを受けるんですか? 女性だったら誰でもいいと言うわけではないですよね?」
“あんな顔”と言われても私は鏡を見ていたわけではないからどんな顔をしていたか判らない。
けれど、そう――。
多分、彼女の言うような、そんな顔をしていたのかも知れない。
なぜなら……私は、彼女が好きだから……。
11歳も年下で、同性で、受け持ちのクラスの女生徒を、――ずっとずっと想っていたから。
彼女に好きだと告げられた時。あまりの衝撃に目の前が真っ暗になった。
――私の妄想とか願望が作り出した都合の良い“夢”かと思った。
それほどまでに彼女の存在は私の中であまりにも大きかったから。
だから私は必死になって否定した。否定し続けた。し続けていると信じていた。
けれども、私の心は私の理性とは別の生き物のように彼女を求めていたのかも知れない。
彼女は私を諦めない。諦めてくれない。
その情熱が怖くて恐ろしくて、――そして浮き立つほどに嬉しかった。
私はずっと一人で生きて行こうと思っていたから。
それを決意した時、私は彼女と同じ高校生で、そして酷く傷ついていた。
当時、私が淡い気持ちで心を寄せていた相手はクラスメイトで親友でそして例外なく女性だった。
私が愛した親友はサッカー部のエースに恋していて、そのエースから彼女を介して私が告白されると言う最悪のケースが私達を決別した。
怒り交じりに泣きながら私をなじる彼女をどんな言葉で慰めればいいのだろう。私の心は彼女の言葉の一つ一つに切り裂かれ、鮮血を滴らせていた。彼女の愛するサッカー部のエースを冷たく振ったと私をなじるその彼女に私は恋していたから。
そうして私は彼女を懸命に慰めていて、何かの拍子にふと彼女に自分の心を告げてしまった。
彼女は私の告白に嫌悪をあらわにして言った。
「――あんたはカラスだわ。綺麗な姿と純白の翼を持っているフリをして私達を欺いている。
本当は、本当は穢れた黒い翼しかないのに!!」
彼女は私がゲイである事を誰にも話さなかったようだけれど(少なくとも在学中は。もしくは学校の人間には)私から離れ、私を見る時に浮かぶ嫌悪の入り混じった侮蔑の眼差しと、私を避ける態度は在学中変わることはなかった。
私は彼女の言うように、カラスだった。
美しい色鮮やかな鳥の群れの中に混じる闇夜の色の嫌われもの。
輝く未来も温かで明るい人生も私のいくてには用意されていないのだ。
親友と恋を同時に失って私はこの手に何も残っていないという事を知った。まさしく私は嫌われ者だったから。物事をはっきり言う性格のため男子には受けは良かったけれど女子には嫌われていた。勿論性格だけではなく、容姿とかその他の能力とかそういう面でもいくばかりか抜きん出ていたために女子とはうまくいかない事が多かった。
それから私自身の性癖を判っていてどうしても突っ込んで積極的に仲良くなろうと私自身が考えなかったせいもある。
そこに色鮮やかに登場して私の目を奪い、単調な私の生活に飛び込んで来て、親友と言う微妙な位置に収まった少女を私が愛さないはずもない。そしてその少女に嫌われ、疎まれて私は真に孤独だった。
そしてすべてを失った私は生涯を一人で生きることを決めて人生設計を立てた。
あれから、10年が過ぎ、私は私が決めた人生をそのまま歩んで来ていた。正確に狂いなく。このままずっと一人で生きて行くつもりだった。
なのに、心はどうして他者に惹かれていくのだろう。
もう二度とこの心に誰かが住むことなどありえないと思っていたのに。
「――先生は私が好きなんです」
輝く強い瞳で揺ぎ無い眼差しで私の愛する少女は私の心を暴く。こんな風にすべてを暴かれてしまうのがずっとずっと恐ろしかった。逃げ出したいほどに怖かった。
私は彼女と同じ高校生でもなく、彼女となんの係わりもない人間ではなかったから。私は彼女の担任で11歳年長で一応聖職と呼ばれる職業を生業とする人間だったから。
私が私の恋を成就させていいわけがなかった。たとえそれが両想いだったとしても。
一時の気の迷いで私を愛してくれたとしても、彼女は白い翼を持っている。その翼は人間として浅い私が見ても大きく力強くて誰よりも高みを目指せるのではないかと思わせる目覚しさがあった。彼女の輝かしい未来に私が落す影は汚点にしかならない。
だから私は私の心を殺して告げなければならない。
「あなたが嫌い。大っ嫌いなの……」
私の頬を伝う涙は私の恋心の嘆き。
泣いていてはいけないと思うのに、涙が止まらない。
まるであの遠い日に泣く事ができなかった涙が今溢れるかのように、それはとめどなく。
どうしたらいいのか、わからない。苦しくて、辛くて、息が出来ない。
「――助けて……」
私は何に助けを求めたのか自分でも知らずに、海野さんに向けて自分の両手を差し伸べていた。