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 落日〜ただひとたびの〜

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落 日 〜ただひとたびの〜 後日談

 広瀬――いや、既に結婚して名字は変わっているのだがいつまで経っても舞利子にとって広瀬は広瀬だった――の形のいい爪が上品な桜色に染まっているのを見ながら胸に手を当てて甘い疼きをこらえた。
 この消えようもない想いはどこまで行くのだろう。
 もうどこにも舞利子の愛した広瀬の面影はないのに――。
 「橘の事なんだけど……」
 十何年ぶりに三人で会うことになって橘の仕事が終わるのを待って先に待ち合わせた舞利子に広瀬はポツリポツリと語り始めた。
 「これは私が言うべきじゃないかもしれないけど……この先の橘の人生を考えると、ちゃんとピリオド打たせた方がいいんじゃないかって……」
 今回舞利子が口にしようといろいろ考えた末の台詞を広瀬の口から聞かされて舞利子は不可解な表情になった。
 「自惚れかも知れないけど、君たちが私の事を大事に思ってくれてた事は判っていた。当時は自分の事でいっぱいいっぱいで応えることは出来なかったけど……」
 「広瀬??」
 問うような舞利子に広瀬は柔らかく笑いかけた。広瀬は本当に変わってしまった。こんなふうに柔らかく笑う広瀬を作ったのが自分ではないなんて……。心が引き絞られるような痛みを感じる。
 まだ、こんなにも気持ちが残っている事を思い知らされて舞利子は愕然となった。
 「君も知ってのとおり、私は詩穂が好きだった。言葉を飾らなければ、同性をそう言っていいなら……愛していた」
 少し言い辛そうに顰められた表情はどこか昔の広瀬の翳を色濃く残していた。
 「だから、私達は、その、……同じ片思いをする人間として、慰め合っていたんだ」
 「?」
 「同じ、親友に片思いしている者同士、慰め合っていたんだ……」
 「ば、馬鹿なっ。まさか……、そん、なっ……」
 舞利子は思わず場所も考えずに叫んで立ち上がってしまった。
 喫茶店の中で注目を集めてしまった事に気付き、慌てて口を押さえて頭を下げる。恥ずかしさと戸惑いを浮かべたまま舞利子は椅子に座りなおした。
 「そうなんだ」
 肩を竦めてぺろりと舌を出す広瀬のしぐさをひどく遠く感じる。
 あの夕暮れ時、広瀬を堪えようもなく好きだと言った熱に浮かされた熱く切ないあの告白は……では自分に向けた狂おしいまでのメッセージだったのかと、舞利子は驚愕した。
 「君の慌てた顔、初めて見た」
 可笑しそうに笑う広瀬を舞利子は一睨みした。
 「もう、高齢出産って言われる年齢だし、そろそろ橘に引導渡してやってくれないかな。私はさ、君を忘れようと努力してる橘をずっと見て来た。自分自身じゃどうしようもできない事はやっぱり相手にしてもらうしかないと思ってさ」
 「広瀬……」
 これから橘と会うのにこんな話をされて、舞利子は途方に暮れる。
 否、自分とて同じ話を広瀬にしようとしてたではないか。
 だからこれは多分正解なのだ。
 「広瀬……今更と思うが私は広瀬を好きだった。ずっと、多分、今もだ。虫のいい話かもしれないが夫も子供も愛している。その気持ちと広瀬を好きな想いは、違う。橘を好きだが、それは友愛の範疇を逸脱しない」
 自分の気持ちに整理つける意味でも広瀬には自分の真実を告げておこうと舞利子は思った。
 「まさか今更ここで告白させられるとは思わなかったな」
 舞利子の柔らかな唇に苦笑が刻まれた。
 生涯告げることのない、その想いを、まさかここで告白させられるとは……。
 「ありがとう。その事は橘から聞いて知ってた。君はあの頃の私を愛してくれたただ一人の人間だ。だからありがとう。感謝してる」
 舞利子は何かを振り払うようにゆっくりと首を振った。
 「それは違う。広瀬はさまざまなものに愛されていた。だから、私が愛したのだ」
 橘もまたそういう広瀬を愛している一人だと思っていた。
 「サンキュ。私も舞利子のそういつもどこか超然としているところが好きだったし心強かった」
 「広瀬……」
 告白したからとて何かが変わるわけではない。舞利子にも広瀬にも現在があるのだから。
 「私は橘になんと言えばいいのか判らない。私自身も広瀬を想う事をやめたわけではないからな」
 舞利子の呟きに広瀬の頬がほんのりと赤く染まった。まるで夕日に照らされた過去の広瀬のように。
 「……サンキュ。今の、その気持ちを正直に言えばいいんじゃないかな。それでも君は結婚して今の生活を築きあげているんだから……。勿論私もだけど」
 「――広瀬は、まだ都築の事を??」
 舞利子の質問に広瀬は夢見るようにうっとりと目を細めた。
 「なんだろう。あの切なくて自分ではどうしようもないあの気持ちは忘れようもないよ。思い出しても心の片隅がじんわりと温かくなる。
 だけど、今はもう大切な思い出の一つになってる。そう信じてる」
 そうは言ってももし今都築詩穂と会えばその気持ちがどうなってしまうかは判らないけれど、と広瀬がひっそりと呟く。暗にだから会ってないのだと、そう言ってるのだろう。舞利子もまた今回の橘の件がなければ広瀬に会うつもりはなかった。だから広瀬のその気持ちが判りすぎるくらいわかるのだ。
 この、胸の、甘い疼きを、切ない情熱を再認識したくはなかった。
 けれども、橘のために広瀬に会うことを決意したのだ。
 だから舞利子は橘のために橘を解放しなければならない。
 もし、本当に広瀬の言うように橘が舞利子に囚われているのだとしたら……。
 「――あ、橘が来た!」
 不意に上がった広瀬の声に、橘との出会いから一番最後に会った時の事までが走馬灯のように舞利子の脳裏を駆け巡った。



〜 END 〜



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